2018年 07月 23日
表徴の帝国 ロラン・バルト |
バルトが日本に来て気がついたことは、「エクリチュール(表現体)のなかにカタチがある」西洋とは異なり、日本は思いもよらぬ象徴世界を垣間見せてくれる表徴の特徴線(トレ)の貯蔵庫であったいうこと。
更にバルトは「探り求めなければならないのは、西洋とは別種の象徴ではなく、象徴の裂け目そのもの」。バルト自ずからの日本での行為は、日本を書くのではなく、日本がバルトをエクリチュールの場の中に置いたのであり、バルトはその中で別種の象徴ではなく、象徴の裂け目そのものを探り求めたと書いている。
バルトは日本を既知の言語化で西洋化するのではなく、幾世紀にもわたっておこなってきた西洋のイデオロギー的失地回復の検討こそがこの書の試みだと言っている。つまり、この書のテーマは日本ではなく西洋における記号化の方法、そして、「表現体とは一種の<悟り>であり、悟りは言葉の無化作用を行うもの。<言葉の無化>こそが表現体を生む」のだと書いている。まぁ、どこまで行っても西洋的方法は我々には解りにくい。
逆に、日本を西洋化して捉えることばかりに躍起となっていた我が身は、この書から失地回復どころか、我々自身の生活と文化の、何ものをも見て来なかったことに気づかされた。
小書だがこの書は貴重だ。
我々の言葉、我々の食事、我々の仕草、我々の東京、我々の街、我々の駅、我々の部屋は我々流の日本語で詳細に記号化されている、しかし、その記号が何を意味していたかには全く無頓着であった。はじめて見えたこと、何もない、カタチもない、エクリチュールの中に幻視できるもの、それは中心のない自分自身の姿のような気がする。
by leporello1
| 2018-07-23 16:32
| book
|
Comments(0)