ムーン・パレス ポール・オースター |
「 ポール・オースターのムーン・パレスを読んでいる。こんな小説を読みながら月を観ると、天空に穴が空いたのかと思ってしまう。その穴からを覗いているの誰だろうか。」
一昨日の十六夜、こんな感想をnoteにしていた。
いま、読み終わって見ると、まんざら外れていたとは思えない。
覗いているのは作者であるポール・オースターだ。
頁を繰り終わり、目を瞑ると、ボクにはこんな言葉が聞こえる。
生きるということはかくも悲しい。
しかし、その悲しみに涙はいらない。
人は自分自身が生み出す物語を生きるのだ。
今回のオースターもまた素晴らしかった。
この小説はストレートに人間の生き様をカタチにしている。
この小説は決して青春小説ではない。もちろん、流行りの自分探しというものでもない。
世代の異なる男三人と彼らに関わる人間たちの話だ。
それも、奇妙で不細工な男ばかり、決して群れない、迎合しない、不器用でイイネなんて絶対に言わない男たち。
いや最も徹底しているのはマーコ・フォッグのチャーミングな恋人、中国人のキティ。
彼女にイイネをすればコメント漬けでボコボコにされる。
27才のマーコ(作者であるポール・オースターと同年生まれ)もまたほかの二人同様、ニューヨークからユタ砂漠を越え、カリフォルニアへ行く。
そして彼だけがラグーナ・ビーチの浜辺に立ち、上っていく月をじっと見るのだ。
「ムーン・パレス」という表題が示すようにこの小説は月が象徴となる。
巻末の解説によれば「ムーン・パレス」はコロンビア大学の近くに実在した学生食堂よりちょっとましな中華料理屋こと。
そこでのコンパでマーコが引き当てたフォーチュン・クッキーは「太陽は過去、地球は現在、そして月は未来だ」。
ボクが3日前すでに予測していたように、巻末で満月を見上げ続けるマーコ・フォッグは、作者ポール・オースターに、この小説が終わってしまう「明日」は、どうするのだと問いかけている。
物語のキーとなるのはユタ砂漠、そこは月面着陸のシュミレーションの場としても有名、地球上につくるられた月なのだ。
さらにこの地に孤立して住むようになったインディアンにとっては、こここそが祖先であるポグとウーマが旱魃で住めなくなった月から逃げ出し降り立った地球の上の「原初の森」。
「人間」と名付けられたインディアンは自分たちの霊は肉体の死後、月に住む、と歴史学者である肉が何層にも積み重なった大伽藍のようなソロモン・バーバーは語っている。
物語はラルフ・アルバート・ブレイクロックの絵画「月光」に触れる。この絵画こそ間違いなくこの小説「ムーン・パレス」の中心となるもの。
目の見えない車椅子の奇妙な偏屈老人エフィングはマーコとの人間関係を生み出すため、彼にブルックリン美術館に実在する「月光」を見てくるように命令する。
「口をきくんじゃないぞ。何もかも黙ってことを進めるんだ。アメリカ絵画の常設展をやっている階をさがして、ギャラリーに入りたまえ。なるべくどの絵も見ないようにして歩け。二番目だか三番目の部屋に、ブレイクロックの「月光」があるはずだ。そこで止まって、絵を見なさい。まる一時間のあいだ、ほかの絵はいっさい無視して、「月光」だけを見るんだ。精神を集中してな。見る距離もいろいろ変えてみなさい。三メートル、五十センチ、二センチ。全体の構図を考えたり、細部を吟味したり、見方もいろいろ変えるんだ。メモを取ってはならん。その絵のあらゆる要素を記憶するようにしろ。人影や自然の事物の位置を正確に覚えて、カンバスのありとあらゆる地点の色を頭に入れるんだ。目を閉ざして、自分でテストしてみたまえ。それから目を開けろ。目の前の風景のなかに入っていこうとしたまえ。目の前の風景を描いた画家の心のなかに入っていこうとしたまえ。ブレイクロックのつもりになってみろ。自分がこの絵を描いているつもりになってみろ。これを一時間続けたら、少し休憩だ。何ならギャラリーの中を歩き回って、ほかの絵を眺めても構わん。それからブレイクロックの絵に戻れ。世界じゅうにこの絵しか存在しないつもりになって、絵に心を委ねるんだ。十五分そうやったら、その場を離れろ。」
さらに、小説でポール・オースターは月から見たボストン、ニューヨーク、ユタ砂漠、サンフランシスコでの出来事をこと細かく語っていく。
その細かさはすでにエフィングが命ずる「月光」の見方に詳述されている。
簡約すれば、何事も一般化し、物同士の差異よりも類似のほうに目が行きがちだが、無数の個別性からなる世界を五感で捉え、直接受けるデータを言葉によって再現している。
加えれば、展開されるのは三世代の男たち自身の命名も半端ではない。
主人公フォグはM.S.Fogg(fog霧、fogel渡り鳥)。
エフィング=F-ing(Dounting=Fukking Tomas疑り深いトマス 、糞ったれトマス)。
ソロモン・バーバーのソロはソリ、つまり太陽そして大地のこと。
「人はみな自分の人生の作者だからね」とビクター伯父さんはまだ幼いマーコ・フォッグに語る場面がある。
ビクターは幼くして母をなくしたマーコの育て親。
母の兄でありクリーブランド交響楽団のクラリネット奏者だが、マーコに様々な名前を付けることで、彼に意味ある人生を生き抜けるように励まし送り出す。
フォッグ=下っ端、フロッグ=蛙、霧(フォッグ)からの連想でスノーボール・ベッド、スラッシュ・マン、ドリズル・マウス。
Marcoはダンボ、ジャーコ(あほんだら)、マンボ・ジャンボ(ちちんぷいぷい)、マルコ・ポーロにポロ・シャツ。
つまり物語全体は満月の月の光が地球を嘗めるように、じっくり這い回り、大樹の木の葉、大地の草の葉、水辺の煌めきはもちろん大都市の屑かご、商店のウィンドウや戸口、ごくあたりまえの街灯、なんの変哲もないマンフォールのふた等を人間が目に見えるように浮かびあがらせていく。
それをどう意味づけ、カタチにし、物語にするかは各々の人間が生きなければならない、個々人の生き様にほかならない、ということだろう。
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