2017年 12月 25日
映画・ヒエロニムス・ボス |
映画「ダンシング・ベートーヴェン」のコメントがワンパターンと批判しだが、音楽作品を視覚化するには、まず言語化が必要になる。音楽作品が表現する意味をバレエがそれをどう言葉に変え表現するか、この映画の興味はここにある、ということにこだわったからだ。
同じような観点から観ると、「ヒエロニムス・ボス」は面白い。映画に登場する、美術評論家、キューレター、美術家、小説家、音楽家・・・そのコメントは悉く一致しない。皆が皆、バラバラで自由にボスの「快楽の園」、その描かれた場面場面を意味づけている。
16世紀の宗教改革期のフランドルの絵画、その現実性はイタリア・ルネサンス以前の絵画とは大きく異なり、現代を読み取るためには不可欠な世界と気づき、最近になって急に関心を強めている。
特にこの時代、この地域の音楽がヨーロッパの音楽を大きく変えていったことを思い出すと、「ヒエロニムス・ボス」は外すことが出来ないテーマだ。
とわ言え、面白かったのは、結局、この絵はどうとでも読み取れる、いや、一致した解釈など、どこにも存在しないということだ。
先週、タブッキの「レクイエム」のなかでのリスボン国立美術館で10年余り毎日、アメリカ人富豪の依頼で「聖アントニウスの誘惑」の部分部分を模写し続ける男の話しを面白く読んだが、どうやらボスは大変な天才のようだ。
by leporello1
| 2017-12-25 16:02
| Movie work
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