2012年 12月 02日
11月のフラグメント |
気候の良い11月の割りに外出が少なかったようだ。
オリンパスを持ち歩くことなく、Photoはすべてhtcとドコモ携帯、唯一、二の酉だけはGE。
なんともコンパクトでデジタルな一ヶ月。
しかし、あっと言う間に秋は遠のき、もう冬だ。
わずかな秋だが、酒量と読書量ばかり嵩んだようだ。
偶々、島崎藤村展を観たのがきっかけ、
久しぶりに「破戒」「新生」等々を秋の夜長、グラスを傾けじっくり読む日が多かった。
と同時にこの月はハイドンを聴く機会も多かった。
「藤村+ハイドン」と関わって、散文としての近代が少し理解できたような気がする。
そして、その近代が何とも「悲しく」感じられた。
「時代」が「悲しい」のではない。
もちろん、藤村やハイドンが悲しいのではない。
ボクやあなたでもない。
人間が「悲しい」。
あのハイドンの中にある、陽気で肯定的な人生観、
あの藤村の中にある、必死でしたたかな「継立て」、
その背後に見えるモノが「悲しい」。
「悲しい」とは関わりないが、あるいはあるのかな、
photoを見て気がつくことだが、
やはり、冬の始まりはこの大楠のようだ。
そして見渡すと、不揃いの都市景観が気になってくる。
鳴り物で突貫工事を進めている大手町近辺、
ようやっとその200m級超高層群が出来上がった様だが、
全く音楽的調和のない都市景観だ。
まぁ、ここには大規模だけに、異形・変形建築がないだけまし、ということかもしれないが、
21世紀は世界的に都市建築デザインは不在あるいは不用ということだろう。
確かに、この時代のデザインに文化的都市景観の意味を与えるのは50年先のことかもしれない。
社会が「共有」できるでデザインは未来にはなく、
過去に「記憶」として残されるものに過ぎないということのようだ。
現在、建築は政治と経済の支配下にあり、その役割は大多数の安全・便利・快適の確保にある。
従って、その集合体であるカタチにならない文化を問う意味はどこにもない。
しかし、曇り空の夕方、千代田図書館の10階から眺めた都市風景。
手前は緑の北の丸公園、遠方の新宿・渋谷.六本木のビルの景観、ボクには墓場の風景に思えてしまう。
三宅坂から日比谷を歩いていても同じような印象、あるいは東御苑から大手町を見ても同じだ。
この都市風景から前方の緑地帯が消えたら、どんな印象を与えるのだろうか。
まぁ、しかし、夜になればイルミネーション。
その世界はどこもバラ色に輝くのは世界中どこも同じだ。
by leporello1
| 2012-12-02 18:28
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