読書はキャッチャーではない、バッターなんだ。投げられたボールを受けるのではなく、打ち返すのが読書の楽しみ。感情移入し、泣いたり、笑ったり、共感するだけなら映画がいい。しかし、現在の優れた映画もまた、もはや感情移入の対象ではない。「作品」とは制作者というピッチャーが投げたボール。読者はその「虚構」をどう読むか。三振でも良いではないか、球筋だけでも読めたなら。
類推的建築論(引用、偶像的類推、転喩、相関)による「建築」をデザインしたイタリアのアルド・ロッシと同時代、メタファー(隠喩)とオブセッション(こだわり)による「物語」を書き続ける村上春樹とはいつもどこか繋がるものがあると思っている。
しかし、ロッシはそのスケッチ図において決して「影」を描き忘れる事はなかった。それは「虚構」を「実体化」するのが「影」であり、「影」があることで「建築」は作り手ではなく使い手のものとなり実体化されるのだ。
しかし、この物語は「影も時もない街」の話し。キミと別れ、一人東京に残されたボクは「影」を失い、この街で夢を読みつづけるという「虚構」。この「虚構」はどう実体化されるのか。
A・B・A*という3部構成は、名前が記されないボクとキミ、福島の山間の街の図書館長とイエローサブマリーンのヨットパーカーを着る男の子による三楽章の弦楽四重奏と言って良いのかもしれない。つまり「不確かな壁」という「物語」は「音楽」もまた「実体化」に関わっている。
ここからは個人的過ぎる感想だが、出版者やハルキストが生み出した「ノルウエーの森」はノーベル賞作品ではない。しかし、彼は川端や大江の日本から離れ、今の我々の「世界」を生に描ける唯一の現代作家と言って良いのではないだろうか。
彼が生み出すものは、古典的な未知なる世界の「物語」やフロベール以降の誰でも知る世界を描く紋切り型「小説」とは異なり、現代世界を未知の空間的視点から描いた「物語」。
「世界の終わりとワンダーランド・ハードボイルド」はその「先駆け」だったと思っている。現代世界の「実体」は「物語」としてしか描けない。「実体」はもはや他分野のアートとは異なり、作家のものではなく、読み手のもの。作家の投げた「影=卵」を撃つのは我々読者なのだから。
アートやエンターテイメントに踊らされる現代社会、そこではもはや「実体」はなく、受容者をおもねる「お祭りドクトリン」のみが謳歌される。フェスティバルやイベントは虚構ではなく、我々を誘導する安易な「空間装置」に他ならない。そこでは我々の「世界」の意味(批評)が示される事なく、感覚的な享楽のみに踊らされてしまう。そんな世界から今、たくさんの小説や建物が作り続けられている。
村上春樹は「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」とエルサレム賞受賞の際スピーチした。「不確かな壁」は現代世界へ、彼が投げる「卵」(=現代批評)。そう、我々の世界はキャッチャーのいない「ライ麦畑」。「キャッチャー」がいた時代のサリンジャーにかわり、彼は「不確かな壁」に「卵」を投げたのだ。
此処でもない彼処でもない、と「空間」に拘る村上春樹の「物語」はいつも現代「建築」に関わっている、とすでに書いた。
磯崎新の「新都庁舎計画」には「ワンダーランド」の「やみくろ」が引用されたが、今度は逆に「不確かな壁」には磯崎の「新国立競技場問題」における「偶有性操縦法」とその「建築不在」が下敷きとなっている。
「キャッチャー」は戦後すぐの1949年の出版。その四半世紀後の1975年には「ワンダーランド」と「新都庁舎計画のやみくろ広場」。それから半世紀後の今は「不確かな壁」、そこでは実体としての「都市と街」は「影」となる。「物語」に描かれる「現代世界」からは最早「実体」も「虚構」も消えてしまったのだ。