2012年 10月 10日
藤村展を観ながら考えていたこと。 |
その歌には思い出がある。
高校時代の友人、と言っても男ともだちだが、古今和歌集や山家集に被れたふたりは共に旅をし、演奏会にもよく出かけた。
本とクラシック好き、お互い島崎藤村を読んでいたことは間違いない。
しかし、話は「惜別の歌」を含め、歌曲のことばかりで若菜集や落梅集、いや藤村のことを話し合ったことははほとんどない。
古典の短歌より親近感のある藤村の新体詩、ふたりとも嫌いではなかった。
ボク自身さけていた理由は「新生」にあったのだ。
ある時、他の友人から芥川の「ある阿呆の一生」からの引用の話しを聞かされ、そのませた情報に唖然とした。
「新生」は藤村の実話、それも兄の娘に子を産ませた近親相関というスキャンダルをそのまま物語にしたものとして知られている。
藤村自身が一時フランスへ逃れ、その前後の懺悔を踏まえ書かれている。
ウブなボクは当時、これもまた自然主義の浪漫小説の一つとして気楽に喜んで読んでいた。
しかし、友人の言う「ある阿呆の一生」の中の、(「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。)というくだりが、それ以降、ボクの中から藤村を奪ってしまったのだ。
後年になって藤村のこんな文章に触れた。
……ここに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思われる。私はこれを読んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映ったかと思った。
知己は逢いがたい。『ある阿呆の一生』を読んで私の胸に残ることは、私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろうということである。私の『新生』は最早十年も前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかったであろうかと思う。しかし私がここで何を言って見たところで、芥川君は最早答えることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとどまる。でも、ああいう遺稿の中の言葉が気に掛って、もっと芥川君をよく知ろうと思うようになった。
島崎藤村 「芥川龍之介君のこと」
以来、ボクは藤村の言う「新生」で書こうとしたこととその意図を正確に知りたいと思った。
彼は浪漫の作家、そして自然主義。
しかし、彼は小さな私小説家ではない、大きなフィクションを書いている。
ギリシャ神話にあるような普遍的な人間の持つ虚構の世界を。
そんなかってな解答を秘め、芥川を嫌っていたが、さらに後年になったある日、ネットの千夜千冊で松岡正剛さんの「夜明け前」を読んで「目から鱗」だ。
「夜明け前」は「新生」のすぐあと、フランスから帰国後、こま子と別れ完成させている。
その内容は藤村の実父、島崎正樹の半生を画いたもの。
つまり、「新生」と同様、藤村にとっての生の体験が大きな小説を生み出している。
そして松岡さんが書かれている以下のくだり。
(藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。)
そうだよ藤村の物語はいつも大きなフィクションなんだよ、単なる木曽山中の本陣の息子の話しではない、当時の日本人が誰も書けなかった本来の「ご一新」と挫折を藤村は実父正樹の半生を青山半蔵に託して浮き彫りにした。
「ご一新」の本来的な意味、それはまだまだ問うべきであろう、永井荷風や幸田露伴、さらに漱石や・・・・文化的範疇で近代日本に疑問を持つ作家は数知れない。
しかし、松岡さんが書かれた、(「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業)、あるいはインフラストラクチャーの瓦解に関わる人間の生き様、をこれほど実感を持って書かれた小説はなかなか見当たらない。
ボクの関心はいつもこのインフラストラクチャーの瓦解に関わる「狭間の人間」にあり、それが相も変わらず「イタリア・ルネサンスの音楽と建築」から抜け出せない理由でもあるのだが、この「狭間」は決して単なる経過ではない、
人間の意志つまりフィクションだ、だからこそ、詩や小説が必要とされ、音楽と建築も必然なのだ、といつも思っている。
松岡さんは千夜千冊の「夜明け前」の締めを以下のように書いている。
(どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。)
どうやら、狭間にあるボクたちは意志あるいはフィクションを表現しえていない。
いや一人だけいる、日本、いや世界の「狭間」を画いている人が、そう、村上春樹。
そういえば島崎藤村もまた春樹でしたね。
ノーベル文学賞の発表は明日(10月11日)のようです。
村上春樹でしょうね。
by leporello1
| 2012-10-10 01:05
| event
|
Comments(0)