2012年 09月 09日
ノイズ ジャック・アタリ |
「音楽は予言的であるが故に、来るべき時代を告知する。」なんとも魅力的な書き出しだ。神保町の東京堂の書棚から即レジに運び読みだしたのが盆の頃。一心に読み続け月末には読了したが、残念ながらお手上げ状態。ボクの力では半分も理解できていない。とはいえ、悪戦苦闘の結果である、書き込まれた付箋代わりの赤線がほぼ全頁に渡って引かれている。一呼吸おいた週末、このままでは放っておけないので、気になった付箋部分だけでも後日の為のメモとしてブログに残すことにした。
章立ては「聴く」「供える」「演奏する」「反復する」「作曲する」。音楽の理論書ではないので、この分類は音楽を直接的に説明するものではなく、むしろ時系列あるいは歴史的分類。しかし、音楽史ではなく経済史いや情報史でもなく。>沈黙>騒音>音楽>騒音>沈黙>という音楽的世界の消費と需要と生産、その昨日・今日・明日。
何を書いているんだろうね、やっぱり読めていない。しかし、飽きずに読み通したのだから面白かったのだ、それも後半になればなるほど、特に「反復する」のあたりは真っ赤っか。話はブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の戦い」から始まるが、ここもまた絵画の直接的な話ではなく「ブリューゲルは西洋絵画ではじめてわれわれに<<世界>>を見せるだけでなく、聞かせてくれた」。確かに論は全て個人主義と祝祭・謝肉祭に帰結する、そして彼は「作曲」という未来社会を凝視する。
以下はメモ
p8
音楽は世界を知覚する一つの手段、認識の道具。音楽によって理論化する。
p9
量化不能な、非生産的な、純粋記号でありながら今日では売られるものとなった音楽は、来るべき社会、形のないものが大量に生産され消費され、ほぼ一律な対象(もの)の増大のなかに差異が人的に再創造されるという来るべき社会、その輪郭を描き出している。如何に組織化された社会であれ、その胎内に差異を構造化することなしには存在しえない。しかし、商品経済は、この差異を量産品として縮小することなしに発展することはできない。
p10
経済学と美学とを相互に浸透させること。音楽が予言的なものであり、社会組織がその響きであることを示すこと。
p12
社会は、色や音、いやそれ以上に音とその配列によって仕立てられている。雑音とともに、無秩序とその逆、すなわち世界が生まれる。
p16
規格化され均質化された音楽の独語、それは。もはや人々が言葉を交わすことさえなくなってしまった日常生活の必需品となり、さらにそれを包囲する。
p17
音楽とは、その存在そのものが、人間とその環境との交通の様式、社会的表現様式、そして持続に他ならない。
p18
原始的ポリフォニー、古典的対位旋律、和声的調性、十二音音楽、そしてエレクトロニクス音楽等々の間には、可変的なシンタックスに基づく雑音の形態化という原理以外に共通なものは何一つない。
p19
価値が瓦解しつつある今、商品同士が人間に代わって、貧相な言語を使って口をききつつある今、美のコードの終焉が鮮烈に示される。
p32
ロラン・バルトが言っている。「今様の音楽批評はとは、
作品あるいは演奏をもっとも内容のない言語、形容詞に翻訳するものにすぎない」。だが、歴史がわれわれに差し出す雑音の巨大な森林のなかで、われわれはどの道筋をとればよいのだろう?
p33
音楽は雑音と沈黙の間に、それが啓示する社会的コードの空間のなかに位置する。
p33
時代が音楽を貫き、音楽が時代に意味を与えていることだけは間違いない。わたしのここでの目論見は、秩序、即ち、差異の継起としての音楽、その経済学を跡づけることにある。だがその秩序たるや、不安定で移ろいやすいものでしかなく、つねに予言的なものである雑音、すなわち差異の再審によって脅かされているのだ。
p45
音楽というメッセージの「意味」は、各個別々の音の並列的意義にあるのではなく、その社会的機能のうちに、総体として表現される。
p47
音楽は社会秩序、そして政治的統合を生む出すものであると同時に、想像力の昇華であり、高揚である。
p51
音楽が近代社会のなかで、神話の代替物となったことを示そうとしたのはレヴィ=ストロウスである。
コードの音楽家バッハ、ストラヴィンスキー
物語るメッセージの音楽家ラヴェル、シェーンベルク
メッセージを物語にそってコード化する神話の音楽家ヴァーグナー、ドビュッシー
p141
演奏におけるハーモニーの組み合わせ理論と個人主義的システムは、世界との諸関係についての、創造と現実のカイリについてのいよいよ先鋭化する意識へと音楽家を駆り立てることによって、個人主義のロマン主義的過激化、演奏過程の崩壊へと必然的に導かれていった。
p141
ハーモニーの支配の崩壊とともに、演奏の系、中産階級の社会秩序への神秘的融解の終焉がはじまる。
p143
世界が19世紀のウィーン文化として讃えたものの十分の九は、ウィーンのユダヤ人によって奨励され、養われ、自己創造さえされた文化であった。
p144
ハーモニー的秩序の過剰は無秩序=セリーを含意する。
反ハーモニーは、組み合わせ発展の崩壊であり、雑音。意味の終焉の中に、不確実性、狂気、実際には、反復を定位する。
p145
演奏は、その生産性が不変、それ故、その費用が、その他の経済生産性の改良に伴って高騰してゆくという生産。演奏活動はそれ自身として利益をあげうるものではなく、それ故、資本家はそれに投資しなくなる。
p146
演奏はレコードのショーウインドウ、反復のプロモーションの媒体。
p153
音楽が産業の一つとなり、その消費は集団的なものであることをやめる。
p154
行商人の青表紙本(騎士物語)が読者を作り、語り部を追放したように、印刷業が写本業者を追放したように、演奏はやがて反復にその場を明け渡すことになる。
p155
再生、それは現物の死、コピーの勝利、表象された素材の忘却。
p157
一つの系(演奏)を保存するために考え出された録音が、もう1つの系(反復)を作り出し、知と政治の壮大な変化を告知する。
p175
反復は人間的生産=関係の大規模な変化。それは人間と歴史との関係の根本的な変動。何故ならそれは時間のストックを可能にするからである。
p179
音楽が商品になるのはポピュラーミュージックに対する市場が生まれてからのこと。
p183
音楽の生産過程は、音楽家が聴衆に与えるものの絶対的な支配者であった演奏の過程とはまるで違うもの。今日、反復においては録音の質を決定するのは音の技術者。
p183
演奏の意外性と危険性は反復のなかに消え去っていく。
p183
音楽が背景音であり、生活の形であり、躊躇であり、口ごもりであったことは次第に忘れ去られていく。
p184
演奏はエネルギーを伝え、反復は雑音のない情報を生産する。
p186
価格はもはや、交換/使用・価値の唯一の決定因ではなく、選択は消費者によって民主主義的に表現される好みによって、可処分所得とは無関係に行われる。
p186
ヒットパレード・システムは、曲(オブジェ)の価値が、それに代わるべき他の曲の存在に依存し、他に、より多くの剰余価値を実現する可能性が現れるとき、消え去っていくという状況を掲示している。(不動産としての建築は100年も前から、ヒットパレードはすでにわれわれの生活を包囲しつつある。)それは循環しはじめようとする新しい生産物の財政的圧力の関数となる。
p187
価格システムがもはや意味を与えることのできない相対的価値の掲示が必要。ー>メディア・システムが必要。
p188
ラジオはすでにレコード産業のショーウィンドゥ、折り込み広告。
p189
音楽が堕落したのではなく、われわれのまわりに堕落した音楽が増えたのである。
p191
夢見られる生活は、「ポップな生活」、即ち、制御不能になった巨大な機構の外への避難、個人的無関心の承認、そして、世界を変えることに対する集団の無力の承認である。反復の音楽は、関係であると同時に、世界の意味の不在を満たす手段となる。それは非=政治的、非=葛藤的な理想化された価値システムを生み出す。
p196
科学との並行性はあらゆる点にわたる。科学同様、音楽はそのコードを破壊した。調性の放棄以来、もはや、作曲する者と、聴く者に共通する真理、あるいは参照の基準は存在しない。ー>建築はこの基準を200年も前に失っている。
p196
音楽はますます抽象の前に消え去り、規則の不在がもたらす眩望は永遠のものとなっている。
p197
現代の音楽家は何も語らず、反復に於けるコミュニケーションの不可能性という彼の時代の無意味以外は何も意味しない。
p201
音楽は聴衆の需要に適応しようとすることもなく、存在し、自らを強要する。それは進歩の純粋イデオロギーであり、即自的な価値でさえある。たとえ、それが使用価値とコミュニケーションの破壊であろうとも。
p207
ポピュラー音楽と学者音楽
p209
演奏の時代、自由競争資本主義における個人的生産の時代には、作品は存在したし、具体的な、生きられる時間のなかで形成されていた。
p215
雑音のコントロール、それは、月並みの意味での沈黙の強制ではない。音のある沈黙、無害な饒舌、回復可能な危機なのだ。
p226
需要の生産の効率を改善することが、社会の運行の鍵
p229
権力の掌握とは権力の声を聞かせること。
p234
ラング(言語)であると同時にメッセージである新たなコードを発明すること。それは、自らが楽しむために奏することであり、それこそが、新たなコミュニケーションのための条件を作り出し得る唯一のこと。
p237
作曲は、それに先行する系の破壊の上にしか現れることはできない。
p239
音楽は寺院でもホールでも自宅でもなく、いたるところ、それを愉しみたいすべての人によって生産され得るところにある。
p240
音楽の経済的諸条件の破壊の彼方に、作曲は、自らを、現実的に異なった唯一の組織システムの要求として、異なった音楽、そして異なった社会的諸関係が生じえる唯一の系として現れるのだ。諸個人が自分自身のために、意味、使用、それに交換を度外視して愉しむために生産する音楽。
p243
今日、反復が本質的に、商品の生産ではなく需要の生産と流通の支配の上に基礎づけられている。
p245
無料で演奏する小さなアマチュア・オーケストラが増える。音楽は再度日常的な冒険に、壊乱的祭りの一要素となる。楽器の生産と発明がほとんど三世紀間の断絶を経て、目に見えて増加する。創造の仕事は集団のものとなる。
p246
新しい民衆音楽があるのではなく、民衆のなかに音楽新たな実践があるのだ。
p246
中世のジョングルールを思い出させる。ジョングルールは集団的記憶であり、文化創造と、宮廷の情報の民衆への循環の本質的な場であった。
p247
音楽はもはや表象され、ストックされるためには作られず、集団的遊びへの参加として、儀礼的ではなく、不安定なコミュニケーションの永続的探求として作られる。それは再生されぬもの、不可逆のもの。
p248
聴きたい音楽が必ずしも演奏したい音楽とは、まして、即興で作りたい音楽とは限らない以上、今や、生産の本質は変わらざるを得ない。
p249
作曲において生産すること、それはまず、差異の生産を享受することである。
p251
不確定的なものが秩序に再結合する。二人の人間が、そこに彼らの想像力と欲求を託するとき、あらゆる雑音は相互交通の可能性、未来の秩序となる。
p254
音楽の悦びが、交換にもストックにももはやないように、生産の悦びは、その市場や支払い過程の組み込みとはべつのところにある。だから、違った経済組織のシステム、違った政治制度を考えなければならない。
p254
作曲は、もはやストックするためではなく、それを生きる為の時間を解き放つ。
p258
欠如なしに社会はあり得なくなるだろう。
p258
急がねばならぬ、われわれがいつでも声の届くところにいるならば、世界は、自らを反復することによって、雑音と暴力のなかに瓦解してしまうから。
p258
「謝肉祭と四旬説の戦い」の背景の輪に、二十五世紀前にはじまった戦いの、前提ではなく、帰結を聴きたい。
p8
音楽は世界を知覚する一つの手段、認識の道具。音楽によって理論化する。
p9
量化不能な、非生産的な、純粋記号でありながら今日では売られるものとなった音楽は、来るべき社会、形のないものが大量に生産され消費され、ほぼ一律な対象(もの)の増大のなかに差異が人的に再創造されるという来るべき社会、その輪郭を描き出している。如何に組織化された社会であれ、その胎内に差異を構造化することなしには存在しえない。しかし、商品経済は、この差異を量産品として縮小することなしに発展することはできない。
p10
経済学と美学とを相互に浸透させること。音楽が予言的なものであり、社会組織がその響きであることを示すこと。
p12
社会は、色や音、いやそれ以上に音とその配列によって仕立てられている。雑音とともに、無秩序とその逆、すなわち世界が生まれる。
p16
規格化され均質化された音楽の独語、それは。もはや人々が言葉を交わすことさえなくなってしまった日常生活の必需品となり、さらにそれを包囲する。
p17
音楽とは、その存在そのものが、人間とその環境との交通の様式、社会的表現様式、そして持続に他ならない。
p18
原始的ポリフォニー、古典的対位旋律、和声的調性、十二音音楽、そしてエレクトロニクス音楽等々の間には、可変的なシンタックスに基づく雑音の形態化という原理以外に共通なものは何一つない。
p19
価値が瓦解しつつある今、商品同士が人間に代わって、貧相な言語を使って口をききつつある今、美のコードの終焉が鮮烈に示される。
p32
ロラン・バルトが言っている。「今様の音楽批評はとは、
作品あるいは演奏をもっとも内容のない言語、形容詞に翻訳するものにすぎない」。だが、歴史がわれわれに差し出す雑音の巨大な森林のなかで、われわれはどの道筋をとればよいのだろう?
p33
音楽は雑音と沈黙の間に、それが啓示する社会的コードの空間のなかに位置する。
p33
時代が音楽を貫き、音楽が時代に意味を与えていることだけは間違いない。わたしのここでの目論見は、秩序、即ち、差異の継起としての音楽、その経済学を跡づけることにある。だがその秩序たるや、不安定で移ろいやすいものでしかなく、つねに予言的なものである雑音、すなわち差異の再審によって脅かされているのだ。
p45
音楽というメッセージの「意味」は、各個別々の音の並列的意義にあるのではなく、その社会的機能のうちに、総体として表現される。
p47
音楽は社会秩序、そして政治的統合を生む出すものであると同時に、想像力の昇華であり、高揚である。
p51
音楽が近代社会のなかで、神話の代替物となったことを示そうとしたのはレヴィ=ストロウスである。
コードの音楽家バッハ、ストラヴィンスキー
物語るメッセージの音楽家ラヴェル、シェーンベルク
メッセージを物語にそってコード化する神話の音楽家ヴァーグナー、ドビュッシー
p141
演奏におけるハーモニーの組み合わせ理論と個人主義的システムは、世界との諸関係についての、創造と現実のカイリについてのいよいよ先鋭化する意識へと音楽家を駆り立てることによって、個人主義のロマン主義的過激化、演奏過程の崩壊へと必然的に導かれていった。
p141
ハーモニーの支配の崩壊とともに、演奏の系、中産階級の社会秩序への神秘的融解の終焉がはじまる。
p143
世界が19世紀のウィーン文化として讃えたものの十分の九は、ウィーンのユダヤ人によって奨励され、養われ、自己創造さえされた文化であった。
p144
ハーモニー的秩序の過剰は無秩序=セリーを含意する。
反ハーモニーは、組み合わせ発展の崩壊であり、雑音。意味の終焉の中に、不確実性、狂気、実際には、反復を定位する。
p145
演奏は、その生産性が不変、それ故、その費用が、その他の経済生産性の改良に伴って高騰してゆくという生産。演奏活動はそれ自身として利益をあげうるものではなく、それ故、資本家はそれに投資しなくなる。
p146
演奏はレコードのショーウインドウ、反復のプロモーションの媒体。
p153
音楽が産業の一つとなり、その消費は集団的なものであることをやめる。
p154
行商人の青表紙本(騎士物語)が読者を作り、語り部を追放したように、印刷業が写本業者を追放したように、演奏はやがて反復にその場を明け渡すことになる。
p155
再生、それは現物の死、コピーの勝利、表象された素材の忘却。
p157
一つの系(演奏)を保存するために考え出された録音が、もう1つの系(反復)を作り出し、知と政治の壮大な変化を告知する。
p175
反復は人間的生産=関係の大規模な変化。それは人間と歴史との関係の根本的な変動。何故ならそれは時間のストックを可能にするからである。
p179
音楽が商品になるのはポピュラーミュージックに対する市場が生まれてからのこと。
p183
音楽の生産過程は、音楽家が聴衆に与えるものの絶対的な支配者であった演奏の過程とはまるで違うもの。今日、反復においては録音の質を決定するのは音の技術者。
p183
演奏の意外性と危険性は反復のなかに消え去っていく。
p183
音楽が背景音であり、生活の形であり、躊躇であり、口ごもりであったことは次第に忘れ去られていく。
p184
演奏はエネルギーを伝え、反復は雑音のない情報を生産する。
p186
価格はもはや、交換/使用・価値の唯一の決定因ではなく、選択は消費者によって民主主義的に表現される好みによって、可処分所得とは無関係に行われる。
p186
ヒットパレード・システムは、曲(オブジェ)の価値が、それに代わるべき他の曲の存在に依存し、他に、より多くの剰余価値を実現する可能性が現れるとき、消え去っていくという状況を掲示している。(不動産としての建築は100年も前から、ヒットパレードはすでにわれわれの生活を包囲しつつある。)それは循環しはじめようとする新しい生産物の財政的圧力の関数となる。
p187
価格システムがもはや意味を与えることのできない相対的価値の掲示が必要。ー>メディア・システムが必要。
p188
ラジオはすでにレコード産業のショーウィンドゥ、折り込み広告。
p189
音楽が堕落したのではなく、われわれのまわりに堕落した音楽が増えたのである。
p191
夢見られる生活は、「ポップな生活」、即ち、制御不能になった巨大な機構の外への避難、個人的無関心の承認、そして、世界を変えることに対する集団の無力の承認である。反復の音楽は、関係であると同時に、世界の意味の不在を満たす手段となる。それは非=政治的、非=葛藤的な理想化された価値システムを生み出す。
p196
科学との並行性はあらゆる点にわたる。科学同様、音楽はそのコードを破壊した。調性の放棄以来、もはや、作曲する者と、聴く者に共通する真理、あるいは参照の基準は存在しない。ー>建築はこの基準を200年も前に失っている。
p196
音楽はますます抽象の前に消え去り、規則の不在がもたらす眩望は永遠のものとなっている。
p197
現代の音楽家は何も語らず、反復に於けるコミュニケーションの不可能性という彼の時代の無意味以外は何も意味しない。
p201
音楽は聴衆の需要に適応しようとすることもなく、存在し、自らを強要する。それは進歩の純粋イデオロギーであり、即自的な価値でさえある。たとえ、それが使用価値とコミュニケーションの破壊であろうとも。
p207
ポピュラー音楽と学者音楽
p209
演奏の時代、自由競争資本主義における個人的生産の時代には、作品は存在したし、具体的な、生きられる時間のなかで形成されていた。
p215
雑音のコントロール、それは、月並みの意味での沈黙の強制ではない。音のある沈黙、無害な饒舌、回復可能な危機なのだ。
p226
需要の生産の効率を改善することが、社会の運行の鍵
p229
権力の掌握とは権力の声を聞かせること。
p234
ラング(言語)であると同時にメッセージである新たなコードを発明すること。それは、自らが楽しむために奏することであり、それこそが、新たなコミュニケーションのための条件を作り出し得る唯一のこと。
p237
作曲は、それに先行する系の破壊の上にしか現れることはできない。
p239
音楽は寺院でもホールでも自宅でもなく、いたるところ、それを愉しみたいすべての人によって生産され得るところにある。
p240
音楽の経済的諸条件の破壊の彼方に、作曲は、自らを、現実的に異なった唯一の組織システムの要求として、異なった音楽、そして異なった社会的諸関係が生じえる唯一の系として現れるのだ。諸個人が自分自身のために、意味、使用、それに交換を度外視して愉しむために生産する音楽。
p243
今日、反復が本質的に、商品の生産ではなく需要の生産と流通の支配の上に基礎づけられている。
p245
無料で演奏する小さなアマチュア・オーケストラが増える。音楽は再度日常的な冒険に、壊乱的祭りの一要素となる。楽器の生産と発明がほとんど三世紀間の断絶を経て、目に見えて増加する。創造の仕事は集団のものとなる。
p246
新しい民衆音楽があるのではなく、民衆のなかに音楽新たな実践があるのだ。
p246
中世のジョングルールを思い出させる。ジョングルールは集団的記憶であり、文化創造と、宮廷の情報の民衆への循環の本質的な場であった。
p247
音楽はもはや表象され、ストックされるためには作られず、集団的遊びへの参加として、儀礼的ではなく、不安定なコミュニケーションの永続的探求として作られる。それは再生されぬもの、不可逆のもの。
p248
聴きたい音楽が必ずしも演奏したい音楽とは、まして、即興で作りたい音楽とは限らない以上、今や、生産の本質は変わらざるを得ない。
p249
作曲において生産すること、それはまず、差異の生産を享受することである。
p251
不確定的なものが秩序に再結合する。二人の人間が、そこに彼らの想像力と欲求を託するとき、あらゆる雑音は相互交通の可能性、未来の秩序となる。
p254
音楽の悦びが、交換にもストックにももはやないように、生産の悦びは、その市場や支払い過程の組み込みとはべつのところにある。だから、違った経済組織のシステム、違った政治制度を考えなければならない。
p254
作曲は、もはやストックするためではなく、それを生きる為の時間を解き放つ。
p258
欠如なしに社会はあり得なくなるだろう。
p258
急がねばならぬ、われわれがいつでも声の届くところにいるならば、世界は、自らを反復することによって、雑音と暴力のなかに瓦解してしまうから。
p258
「謝肉祭と四旬説の戦い」の背景の輪に、二十五世紀前にはじまった戦いの、前提ではなく、帰結を聴きたい。
by leporello1
| 2012-09-09 06:00
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