2012年 04月 08日
竹林放置のニュースと竹の建築誌 |
今朝の東京新聞日曜特集版は「どうする?放置竹林」
西日本を中心に、全国的に荒れて放置された竹林が問題視されています。その原因や現状を図解します。
という内容。林業も同じだがいまや農家は高齢化、日常的に整備するひとが少なくなった、ことが主因。
竹は生長が早く森林や畑を占領していると言う。さらに、伐採しても持って行き場所がなく、竹やぶは光が届かず人が気がつきにくく、植生が貧弱化するのだそうだ。
竹は本来、神が宿り、人を水災害からも守るとされていたが、いまや、放置され植物が少ない林床は逆に雨水等を一気に流しかねない状況。かろうじてボランティ団体がその整備にあたっているが荒廃はますます進んでいる。人の手が入らなければ自然環境は荒廃する。いまや自然に目を向けるならば、手を入れる仕組みづくりが求められているようだ。
何年か前、あるシンポジウムで話した内容をブログにしたことがありますので、その記事を再録します。ご笑覧下さい。
竹の建築誌−1/屋根と床
この100年、私たちのライフスタイルは著しく変化しました。
特に最近の30年は、一気に都市化から情報化社会へ。
かっての都市と田園の境界は消え、身近な生活環境は全て都市化され、フラットで商品化されたコモディティな空間へと、その様相をすっかり変えてしまいました。
このドラスティックな生活環境の変化の中で、工芸品としてはともかく、建築材としての「竹」は、全くと言っていいほど姿を消してしまっています。
いや、「竹」がかって建築材として使われていたことすら忘れ去られているのです。
事実、ボクの仲間内でも、日常的な計画物件に「竹」を採用する人はほとんどおりません。
昔は、民家や町屋という庶民の建築では、「竹」は驚くほど様々なところで、自由闊達に沢山使われていました。
川島宙次氏の「滅びゆく民家」を見ますと、「竹」が床、壁、天井、屋根、それも仕上げ材であったり、下地材であったり、様々に形を変えて使われていて、とても、身近で有効な建築素材であったことがよくわかります。
さらに遡れば、中世の「洛中洛外屏風絵」には、板じき石置き屋根の竹の井桁組、竹の連子窓、竹の腰壁、竹の簾、街角には竹売りと、屏風絵の世界はまさに竹の風物誌となっています。
今日は、たまたま業務上の必要から「竹」を探す旅を試みました。
「竹」という素材が「建築」を通して語る、その内側の「世界」を読みとる必要が生じたからです。
調べてみて解ったことをそのまま書いてみたい、と思っていますが、その世界は「竹の素材論」でもなければ「建築史」でもありません、「竹の建築誌」です。
屋根
日本の民家が造る「景観」は屋根の景観と言って良いようです。
民家のひとつひとつは、全て屋根のかたちによって「家」が造られています。
そして、その大きな傘のような屋根の下の幾つかの床が、ボクたちの生活空間と言って良いでしょう。
どこの地方の民家も、様々な屋根と床とのバランスに苦心した結果です。
多くの人たちは知力と技量を尽くし、のどかな田園に、瀬が走る川添いに、あるいは、山深い谷あいに沢山の民家をつくり、幾千の「日本の風景」を造っていきました。
しかし、その風景の主役となる「草屋根」の構造は、驚くほど共通した作られ方をしていました。
屋根構造の歴史的変遷を見てみますと、1000年も前の登呂の遺跡から、そのほとんどは大きな変化はありません。
弥生時代に出来上がった「屋根の構成マニュアル」は後の世、どの時代にあっても、ほとんど変わることなく生き続けてきました。
そのマニュアルの鍵となっているのは「竹」でした。
竹は厚みのある「草屋根」の中で、径を変え、長さを変え、形状を変え、場所を変え、さらに「たるき竹」「屋中竹」「小舞竹」「鉾竹」「えつり竹」「簀竹」「棟竹」と様々に名前を変え、様々の役割を果たしてたのです。
マニュアル化された草屋根ではありますが、その形状は地域の持つ気候風土、時代の変化に対応する豊かなバリエーションを産み出してきました。
そのマニュアルが示す竹の持つ「秘密」、それは「竹篭の原理(篭構造)」にあるのです。
一本一本は細くて弱いが、重ね合わせた接点(篭目)の一つ一つをしっかりと結わえ、総体として支え合いバランスを取りながら、様々な寸法、形状に合わせた豊かなバリエーションを産み出し、しっかりとした強度を生み出していく。
これがマニュアル、日本の屋根の構造です。
まさに、楠正成の故事のような「秘密」が「竹」を媒体として「日本の風景」を造りだしていったと言って過言ではありません。
さらに、竹は「いつでも、どこでも」調達でき、専門的、あるいは特種技術を要することなく、誰でも自由に使用することが出来た素材です。
省資源・リサイクルを指向する最先端「材料学」の現在の課題は「壊したい時、壊れ、壊したい場所が壊れ、難しい道具と技術を利用することなく、大人でも子供でも扱える材料」の開発にあると、参加した研究会で発表されていたことがあります。
つまり、「TAKE」という新しい「素材」の開発が、今の「材料学」の課題となっています。
したがって、「竹篭の原理」の新たな応用こそが、新素材を使っての新たな現代建築テーマとなっている、と言って過言ではありません。
床
大きな屋根の下の「床」、日本の最初の床は「土間床」です。
地面より50センチほど掘り下げて生活空間としたもので、その建築を竪穴式住居と呼んでいます。
一方、弥生時代、稲作という新しい文化をもった人々の集落であった登呂では、その収穫物の倉として「高床」の建物が建設されました。
高床の建物は古墳時代の家屋文鏡や銅鐸のデザインにも登場し、新技術を取り入れた、時の権力者たちの「象徴」となっていた建築であると考えて良いとおもいます。
しかし、ここで重要なことですが、日本の住まいの源流は、「竪穴式住居」と「高床式住居」、床位置の異なる二つのの流れがあったということを忘れてはいけません。
その一つ、様々な「高床式住居」を持つのは東南アジア地域、そこは「竹建築」の世界と言って良いとおもいます。
特にタイ北部山村のアカ族、ヤオ族の集落では、伊勢神宮と見間違えるようなの「竹の家々」で生活が営まれていました。
タイの建築家スメート・ジュムサイ氏は、その著書「水の神ナーガ」で、高床式住居は稲作、六ツ目編み、と共にアジアウォーターフロント地域の文化的共通項だと指摘されています。
「高床式住居」と「稲作」のセットは、日本でも一般的ですが、「竹の網目」の三角形格子、六ツ目編みを含んだ3つをセットの共通項とし、アジアの建築・都市を探求した「水の神ナーガ」は大変ユニークで興味深い「本」です。
特に「竹」ではなく、竹の網目「篭目」にこだわったところがジュムサイ氏の大事な点。
何故ならば、日本の屋根の「篭構造」もまた、アジアの「水の文化」の産物であったと納得させてくれるからです。
東南アジアは竹の「住居」や「生活用品」の中心地です。
従って、その高床式住居の「床」の簀の子が竹で造られ、「六ツ目編み」の竹蓆が敷かれているのは当然のこと。
しかし、日本家屋の「床」がこの高床と同一であり、同じものの発展と決めてしまうのはちょっと早計です。
「床の文化」を持つ日本、ちょっと専門的説明ですが読み取って下さい。
日本の床は、東南アジアの高床とは異なる、もう一つの「秘密」を持っていた考えられます。
東南アジアでの高床の構造は人間の背長けほどある高さの位置で柱の間に床梁を架け渡します。
それは高倉(伊勢神宮)の形式。
2階部分を作る一般的な方法と言って良いとおもいます。
一方、注意して見て欲しいのですが、日本家屋の「床」は住居の主体構造とは切り離されたものなのです。
つまり、日本の「床」は、屋根を支える「柱」とは無関係な台のようなモノであることを忘れてはいけません。
柱と柱の間に、何本かの束(床だけを支える短い柱)を地表に建て、大引きで足固めし、床を貼る。
これが「日本の床」、高床とは異なる束床です。
東南アジアの「高床」とは全く異なるの構造です。
東南アジアとは異なる「日本の床」は「土間」とは異なる「第二の床」として、古墳時代の竪穴式住居では、もうすでに採用されていました。
「土間」と共存するが、僅かな高さの違いで、主体構造とは別のテンポラリーの「第二の床」の発見。
この発見は平安時代には、その「床」の上に「畳」を敷くという、「第三の床」の発見を導きました。
「土間」「床」「畳」、この「三つの床」の発見が日本独特の「床の文化」「間の文化」を育んだでいったと考えられます。
「三つの床」の構成は住居空間の機能分化と深く関わり、接客空間の発展を促し、秩序あるコミュニケーションと社会的統合の「場」を提供しました。
やがて、「三つの床」は「仕つらえ」「身振り」「仕草」という、きめ細かな日本の文化を展開する格好の「舞台」、「道具としての床」ではなく、「文化としての床」を提供することとなりました。
「建物」とは異なる「床」の発見は、その後、日本の文化を展開する上で最も重要な基盤となりました。
さらに、この日本の「床」の秘密はアジアの「水の文化」に通底する大事な視点をも提供してくれました。
日本の建築の特徴は、「大屋根全体を支える構造」と、「生活を支える構造」とが分化しているところにあるのです。
今度は「床」ではなく「床」と「屋根」を支える「構造」に着目してください。
高床構造の柱は「屋根」と「床」を支えますが、「日本の床」は屋根を支える柱とは無関係、つまり、一つの建築が「二つの構造」を持っているところが重要です。
「二つの構造」を持つ日本の建築の意味は、別々の時系列に対応した、別々の建築が一つの建築的世界を作っているということを意味しているのです。
つまり、「第一の建築」は地形や自然現象と一体となり100年、200年を越す時間を生きなければならないのですが、「第二の建築」はその時代のライフスタイルに合わせて、20年も持てばよい。
これが日本の住宅の「時の流れ」に対応したしたたかな方法です。
西洋化した日本人は「新陳代謝」が日本の「建築の方法論」として極めて重要と、度々とりあげています。
しかし、それが単なる代替えを意味するとしたら、それは大きな間違えです。
「二つの構造」、「竹の床」と「束の床」の意味が読み取れていないとするならば、「水の文化」あるいは「時間の流れ」に対応した日本建築は理解されていない。
つまり、それは「作っては壊す」だけの浅薄な歴史認識にほかならず、したたかな、本来の日本建築の方法が読み取られていないことになってしまいます。
竹の建築誌−2/壁と垣根そして桂離宮
壁
屋根の中に仕込まれていた竹の「篭構造」は壁の中にも隠されています。
ジュムサイ氏の言う「六ツ目」ではなく「四ツ目」ではありますが、「篭構造」というアジアウォターフロントの共通の産物は壁の中では、土と協力し強靭な耐力と防火性能、除湿効果を合わせ持つ、日本の気候風土にもっとも適合した複合材を産み出しました。
まさに南の「竹」と北の「土」の協力事業であです。
しかし面白いことに、お隣りの中国や韓国では「土壁」の下地に竹を用いる習慣がまったくありません。
その影響でしょうか、我が国でも法隆寺の時代から寺院建築では、桧という「木」の小舞が使われていて、竹になるのは室町時代、全面的に使われるのは、なんと桃山時代に入ってからだなのだそうです。
では、それ以前の平安時代、京の町屋(庶民の家)や近郊の農家の土壁は、その下地は竹ではなく、木であったというのでしょうか、当然「竹」であったと考えるべきでしょう。
日本の建築を造る集団には二つの流れがありました。
一つは格式的建築とでも言いましょうか、社寺や宮殿、貴族の邸宅建築の流れです。
ここでの建築は大棟梁のもと様々な職方が一体化し、専門家による組織的建築作業により造られていました、まさに、現在の大建築会社による施工組織と同等です。
そして、ここには当然、中国や韓国の新たな技術やノウハウが逐次移入されたでありましょう。
もう一つの流れは非格式的建築、いわゆる庶民の町屋や民家であり、若干の職人たちか、農民という非専門家たちが、祖先から継承した様々な技術を駆使しながら、協同作業によって建築を造っていました。
建築美の表現においても、前者は崇高さや荘重さを、後者は合理的で気持ちが良いを第一としたのであり、つくり手たちの各々は、別々の価値観と別々の美の世界を追い求めてきたと言えるようです。
一つの国に二つの建築の世界が互いに合い関知もせず別々に進行していたのでり、「竹」は前者の格式的建築では全く使われることはありませんでした。
まるで無視といおうか、忌み嫌うかのように。
しかし、庶民の建築では全く逆で、中世の京の街はまさに「竹の風物誌」なのです。
従って「土壁」の発見はむしろ庶民であって、寺院建築の渡来とは異なる、庶民による「竹」と「土」の融合の技術によって、日本独特の「壁」が産み出されたと考えられます。(参考:左官は日本在来のもので、渡来技術に起源を持つものではない。鈴木忠五郎/建築ものはじめ考、新建築社)
そして平安時代の京のまちやや民家では当然、小舞竹と土による協同の産物が彼らの生活空間を形作っていたのです。
やがて近世を迎え、庶民の持つ田楽・猿楽や茶が「能」「茶道」として「格式化」「都市化」されたように、庶民の「竹」は、数奇屋造りの中に「建築化」されていきました。
「建築化」されると言うことは「裏方」ばかりの利用であった竹は、社寺や城郭、貴族の邸宅という「表向き」の世界にも登場し、さらに「桂離宮」に見られるように床、壁、天井、窓、とあらゆる所に技術的洗練と美的配慮を尽くされ、利用されるようになったということです。
桂離宮が造られる桃山時代、農業技術の発達にともなう生産力の増加は庶民の経済力の向上を導きました。
加えて社寺、城郭の大規模な造営が各地で頻繁におこなわれ、建築ブームにのって、たくさんの職人たちが生まれています。
今まで、町屋しか造らなかった職人が、社寺、城郭を造り、そしてまた戻り町屋や民家を造るというように、二つの建築の世界は交流が激しくなり、庶民の持つ様々な技術も、数奇屋造りや桂離宮という新しい美の世界の担い手となっていったのです。
その大きな担い手が「竹」であり、「竹の技術」です。
まさに「竹」による下剋上と呼べるものです。
しかし、その「建築化」により表舞台に立った竹は、何故かパワーを失ってしまいます。
中世の京の町並みを彩り、竹による様々な意匠を凝らした町屋の数々は、「能」や「茶道」が過去の形式として私たちの日常生活から見離されたように、「竹」はその後どんどんと、私たちの生活環境から遠退いていきました。
「竹」の衰退はこの100年ではなく、300年です。
300年という時代のスパンは、「美意識や生き方や価値観」という身近な観点ばかりでなく、「地球規模の社会、その社会構造全体」を見直す必要がある、と指し示しているのではないでしょうか。
垣根
現在、私たちの日常環境で竹が圧倒的に利用されているのは、「垣根」です。
そのデザインの種類は、なんと150を超えるといわれます。
大都会ではともかく中小都市では今でも、まだ「竹垣」が健在であることは興味深いことです。
自動車に襲われれば簡単に壊れてしまう「軽便」な竹垣が、なぜまだ多用されているのでしょうか。
そこには「竹としめ縄」による「ひもろぎ」や正月飾りの門松に示される、竹のもつ神聖さ、「地震が来たら竹薮に逃げよ」と子供のときに聞かされた、「竹林」のもつ安全さが、その物理的役割を超えて私たちの(精神)生活に深く記憶されているように思えてなりません。
竹垣の発達も竹の「建築化」の時代同様、桃山時代です。
茶の湯の成立、茶庭の路地による庭園様式の出現と里における竹林の一般化が竹垣の普及を促したのです。
工作しやすく良質な竹が手短な周辺から沢山産され、優れたデザインが茶の湯の文化の普及と共に一般化したのですが、ここでもまた「都市化」「建築化」に呼応する、自然の「庭園化」に深く関与したのが「竹」でありました。
しかし、竹の「建築化」が何故か竹の衰退を導いているように、自然の「庭園化」は、その後の私たちの生活を大きく変えていったのではないでしょうか。
私には、私たちの日常生活と自然とは一体的(共生)である、という本来の姿を見失わせる原因が、ここにあるように思えてなりません。
桂離宮
月の名所、桂離宮は淀川への注ぎ口に位置する水難の地、そしてまた、古くからの竹の植生の地でもありました。
舟運、魚取り、舟遊び、瓜見、花見、月見等には絶好であったとは言え、一度大雨が続けばまたたく間に、あらゆるものが水流に巻き込まれる、このような場所にあえて建築を決意をさせたのは、当時の水害防備技術に対し、かなりの信頼が寄せられていたことがわかります。
果たせるかな桂離宮はいくたびかの洪水をのりこえ、今日を生きています。
桂離宮を守る水防技術の一端は「竹」にあります。
堤沿いの「桂垣」、御門の両脇の「穗垣」、共に訪れる人を心なごませる美しさですが、この「竹垣」が洪水の時、襲い来る水の速度を和らげ、土石の侵入を防ぎ、桂離宮を今に伝える重要な役割を果たしたのです。
「桂垣」はその姿から笹垣と思われていますが、実は耐水性のよい「淡竹」を生えたままに折曲げて編み付けられています。
垣根沿いには、ほぼ10メートル間隔に欅が植えられ、垣根の裏側は折曲げられた「淡竹」と共に、「真竹」が蜜植されていて、竹林と欅による協働で、襲いかかる水流を和らげ、石礫を濾過し、土砂の流失を防いだのです。
御門脇の「穂垣」は数十センチメートル間隔の太い半割りの竹を支柱に、竹の細い穂先が横に厚く束ねられています。
この「垣根」は明治になって「桂垣」にかわって設けられたものだそうで、水防備の機能の程度は明確ではありません。
しかし、土塀や板塀では不可能であろう役割を果たすことはまったく事実なのです。(桂垣、穂垣の説明では大熊孝著「洪水と治水の河川史」を参考としました)
桂離宮は17世紀中庸、約50年間に渡って段階的に造営されています。
その頃は、公家や僧侶が中心の王朝風文化と、武家や商人による能や茶の湯の文化が重なり合った時代でした。
建築様式も「書院」と「数寄屋」が交じり合い、戦争に明け暮れた時代を乗り越え、新しい文化を創りつつあったのです。
その桂離宮には「竹垣」ばかりでなく、屋根、天井、壁、窓、床と「竹」の持つ機能性、精神性、造形性、簡素な美しさが、巧みに折り込まれています。
とくに月波楼の天井や賞花亭の大窓、竹の雨どいには工芸化された竹には表現できない、自然性、直裁性、時間性を見つけることができ、「竹」に視点を置いて「桂」を見ると清楚、明澄、単純、簡浄、透明、永遠とは異なる、ハイブリッドな、したたかな、たくましい、庶民性を持った桂離宮が発見できるように思えます。
竹は耐久性が短い、虫がつくと始末が悪い。
しかしそのような竹を、時には生きたまま、あるいは周到に伐期を読みながら、身の回りから手軽に調達し、壊れたら直し、絶えず修理し、メンテナンスすることで形を整え、継承していく。
これが桂離宮であり、西洋の永遠性や記念性とは異なる、日本あるいはアジアウォーターフロント共通の「時の継承」の技術、自然と対話した環境技術です。
ここに見いだされる「時の流れに対応する技術」、この技術を私たちは現在、「竹」と共に「桂離宮」に置き忘れてしまったかのようにおもえてなりません。
今、「竹」も「建築」もあまりにも矮小化されてはいないでしょうか。
共に、再び「自然」の真只中にドーンと据え付けてみる必要があります。
そうすれば、開かれた自然との新たな関わりの中から、新しい、大らかな「竹」と「建築」を再び発見できるに違いありません。
西日本を中心に、全国的に荒れて放置された竹林が問題視されています。その原因や現状を図解します。
という内容。林業も同じだがいまや農家は高齢化、日常的に整備するひとが少なくなった、ことが主因。
竹は生長が早く森林や畑を占領していると言う。さらに、伐採しても持って行き場所がなく、竹やぶは光が届かず人が気がつきにくく、植生が貧弱化するのだそうだ。
竹は本来、神が宿り、人を水災害からも守るとされていたが、いまや、放置され植物が少ない林床は逆に雨水等を一気に流しかねない状況。かろうじてボランティ団体がその整備にあたっているが荒廃はますます進んでいる。人の手が入らなければ自然環境は荒廃する。いまや自然に目を向けるならば、手を入れる仕組みづくりが求められているようだ。
何年か前、あるシンポジウムで話した内容をブログにしたことがありますので、その記事を再録します。ご笑覧下さい。
竹の建築誌−1/屋根と床
この100年、私たちのライフスタイルは著しく変化しました。
特に最近の30年は、一気に都市化から情報化社会へ。
かっての都市と田園の境界は消え、身近な生活環境は全て都市化され、フラットで商品化されたコモディティな空間へと、その様相をすっかり変えてしまいました。
このドラスティックな生活環境の変化の中で、工芸品としてはともかく、建築材としての「竹」は、全くと言っていいほど姿を消してしまっています。
いや、「竹」がかって建築材として使われていたことすら忘れ去られているのです。
事実、ボクの仲間内でも、日常的な計画物件に「竹」を採用する人はほとんどおりません。
昔は、民家や町屋という庶民の建築では、「竹」は驚くほど様々なところで、自由闊達に沢山使われていました。
川島宙次氏の「滅びゆく民家」を見ますと、「竹」が床、壁、天井、屋根、それも仕上げ材であったり、下地材であったり、様々に形を変えて使われていて、とても、身近で有効な建築素材であったことがよくわかります。
さらに遡れば、中世の「洛中洛外屏風絵」には、板じき石置き屋根の竹の井桁組、竹の連子窓、竹の腰壁、竹の簾、街角には竹売りと、屏風絵の世界はまさに竹の風物誌となっています。
今日は、たまたま業務上の必要から「竹」を探す旅を試みました。
「竹」という素材が「建築」を通して語る、その内側の「世界」を読みとる必要が生じたからです。
調べてみて解ったことをそのまま書いてみたい、と思っていますが、その世界は「竹の素材論」でもなければ「建築史」でもありません、「竹の建築誌」です。
屋根
日本の民家が造る「景観」は屋根の景観と言って良いようです。
民家のひとつひとつは、全て屋根のかたちによって「家」が造られています。
そして、その大きな傘のような屋根の下の幾つかの床が、ボクたちの生活空間と言って良いでしょう。
どこの地方の民家も、様々な屋根と床とのバランスに苦心した結果です。
多くの人たちは知力と技量を尽くし、のどかな田園に、瀬が走る川添いに、あるいは、山深い谷あいに沢山の民家をつくり、幾千の「日本の風景」を造っていきました。
しかし、その風景の主役となる「草屋根」の構造は、驚くほど共通した作られ方をしていました。
屋根構造の歴史的変遷を見てみますと、1000年も前の登呂の遺跡から、そのほとんどは大きな変化はありません。
弥生時代に出来上がった「屋根の構成マニュアル」は後の世、どの時代にあっても、ほとんど変わることなく生き続けてきました。
そのマニュアルの鍵となっているのは「竹」でした。
竹は厚みのある「草屋根」の中で、径を変え、長さを変え、形状を変え、場所を変え、さらに「たるき竹」「屋中竹」「小舞竹」「鉾竹」「えつり竹」「簀竹」「棟竹」と様々に名前を変え、様々の役割を果たしてたのです。
マニュアル化された草屋根ではありますが、その形状は地域の持つ気候風土、時代の変化に対応する豊かなバリエーションを産み出してきました。
そのマニュアルが示す竹の持つ「秘密」、それは「竹篭の原理(篭構造)」にあるのです。
一本一本は細くて弱いが、重ね合わせた接点(篭目)の一つ一つをしっかりと結わえ、総体として支え合いバランスを取りながら、様々な寸法、形状に合わせた豊かなバリエーションを産み出し、しっかりとした強度を生み出していく。
これがマニュアル、日本の屋根の構造です。
まさに、楠正成の故事のような「秘密」が「竹」を媒体として「日本の風景」を造りだしていったと言って過言ではありません。
さらに、竹は「いつでも、どこでも」調達でき、専門的、あるいは特種技術を要することなく、誰でも自由に使用することが出来た素材です。
省資源・リサイクルを指向する最先端「材料学」の現在の課題は「壊したい時、壊れ、壊したい場所が壊れ、難しい道具と技術を利用することなく、大人でも子供でも扱える材料」の開発にあると、参加した研究会で発表されていたことがあります。
つまり、「TAKE」という新しい「素材」の開発が、今の「材料学」の課題となっています。
したがって、「竹篭の原理」の新たな応用こそが、新素材を使っての新たな現代建築テーマとなっている、と言って過言ではありません。
床
大きな屋根の下の「床」、日本の最初の床は「土間床」です。
地面より50センチほど掘り下げて生活空間としたもので、その建築を竪穴式住居と呼んでいます。
一方、弥生時代、稲作という新しい文化をもった人々の集落であった登呂では、その収穫物の倉として「高床」の建物が建設されました。
高床の建物は古墳時代の家屋文鏡や銅鐸のデザインにも登場し、新技術を取り入れた、時の権力者たちの「象徴」となっていた建築であると考えて良いとおもいます。
しかし、ここで重要なことですが、日本の住まいの源流は、「竪穴式住居」と「高床式住居」、床位置の異なる二つのの流れがあったということを忘れてはいけません。
その一つ、様々な「高床式住居」を持つのは東南アジア地域、そこは「竹建築」の世界と言って良いとおもいます。
特にタイ北部山村のアカ族、ヤオ族の集落では、伊勢神宮と見間違えるようなの「竹の家々」で生活が営まれていました。
タイの建築家スメート・ジュムサイ氏は、その著書「水の神ナーガ」で、高床式住居は稲作、六ツ目編み、と共にアジアウォーターフロント地域の文化的共通項だと指摘されています。
「高床式住居」と「稲作」のセットは、日本でも一般的ですが、「竹の網目」の三角形格子、六ツ目編みを含んだ3つをセットの共通項とし、アジアの建築・都市を探求した「水の神ナーガ」は大変ユニークで興味深い「本」です。
特に「竹」ではなく、竹の網目「篭目」にこだわったところがジュムサイ氏の大事な点。
何故ならば、日本の屋根の「篭構造」もまた、アジアの「水の文化」の産物であったと納得させてくれるからです。
東南アジアは竹の「住居」や「生活用品」の中心地です。
従って、その高床式住居の「床」の簀の子が竹で造られ、「六ツ目編み」の竹蓆が敷かれているのは当然のこと。
しかし、日本家屋の「床」がこの高床と同一であり、同じものの発展と決めてしまうのはちょっと早計です。
「床の文化」を持つ日本、ちょっと専門的説明ですが読み取って下さい。
日本の床は、東南アジアの高床とは異なる、もう一つの「秘密」を持っていた考えられます。
東南アジアでの高床の構造は人間の背長けほどある高さの位置で柱の間に床梁を架け渡します。
それは高倉(伊勢神宮)の形式。
2階部分を作る一般的な方法と言って良いとおもいます。
一方、注意して見て欲しいのですが、日本家屋の「床」は住居の主体構造とは切り離されたものなのです。
つまり、日本の「床」は、屋根を支える「柱」とは無関係な台のようなモノであることを忘れてはいけません。
柱と柱の間に、何本かの束(床だけを支える短い柱)を地表に建て、大引きで足固めし、床を貼る。
これが「日本の床」、高床とは異なる束床です。
東南アジアの「高床」とは全く異なるの構造です。
東南アジアとは異なる「日本の床」は「土間」とは異なる「第二の床」として、古墳時代の竪穴式住居では、もうすでに採用されていました。
「土間」と共存するが、僅かな高さの違いで、主体構造とは別のテンポラリーの「第二の床」の発見。
この発見は平安時代には、その「床」の上に「畳」を敷くという、「第三の床」の発見を導きました。
「土間」「床」「畳」、この「三つの床」の発見が日本独特の「床の文化」「間の文化」を育んだでいったと考えられます。
「三つの床」の構成は住居空間の機能分化と深く関わり、接客空間の発展を促し、秩序あるコミュニケーションと社会的統合の「場」を提供しました。
やがて、「三つの床」は「仕つらえ」「身振り」「仕草」という、きめ細かな日本の文化を展開する格好の「舞台」、「道具としての床」ではなく、「文化としての床」を提供することとなりました。
「建物」とは異なる「床」の発見は、その後、日本の文化を展開する上で最も重要な基盤となりました。
さらに、この日本の「床」の秘密はアジアの「水の文化」に通底する大事な視点をも提供してくれました。
日本の建築の特徴は、「大屋根全体を支える構造」と、「生活を支える構造」とが分化しているところにあるのです。
今度は「床」ではなく「床」と「屋根」を支える「構造」に着目してください。
高床構造の柱は「屋根」と「床」を支えますが、「日本の床」は屋根を支える柱とは無関係、つまり、一つの建築が「二つの構造」を持っているところが重要です。
「二つの構造」を持つ日本の建築の意味は、別々の時系列に対応した、別々の建築が一つの建築的世界を作っているということを意味しているのです。
つまり、「第一の建築」は地形や自然現象と一体となり100年、200年を越す時間を生きなければならないのですが、「第二の建築」はその時代のライフスタイルに合わせて、20年も持てばよい。
これが日本の住宅の「時の流れ」に対応したしたたかな方法です。
西洋化した日本人は「新陳代謝」が日本の「建築の方法論」として極めて重要と、度々とりあげています。
しかし、それが単なる代替えを意味するとしたら、それは大きな間違えです。
「二つの構造」、「竹の床」と「束の床」の意味が読み取れていないとするならば、「水の文化」あるいは「時間の流れ」に対応した日本建築は理解されていない。
つまり、それは「作っては壊す」だけの浅薄な歴史認識にほかならず、したたかな、本来の日本建築の方法が読み取られていないことになってしまいます。
竹の建築誌−2/壁と垣根そして桂離宮
壁
屋根の中に仕込まれていた竹の「篭構造」は壁の中にも隠されています。
ジュムサイ氏の言う「六ツ目」ではなく「四ツ目」ではありますが、「篭構造」というアジアウォターフロントの共通の産物は壁の中では、土と協力し強靭な耐力と防火性能、除湿効果を合わせ持つ、日本の気候風土にもっとも適合した複合材を産み出しました。
まさに南の「竹」と北の「土」の協力事業であです。
しかし面白いことに、お隣りの中国や韓国では「土壁」の下地に竹を用いる習慣がまったくありません。
その影響でしょうか、我が国でも法隆寺の時代から寺院建築では、桧という「木」の小舞が使われていて、竹になるのは室町時代、全面的に使われるのは、なんと桃山時代に入ってからだなのだそうです。
では、それ以前の平安時代、京の町屋(庶民の家)や近郊の農家の土壁は、その下地は竹ではなく、木であったというのでしょうか、当然「竹」であったと考えるべきでしょう。
日本の建築を造る集団には二つの流れがありました。
一つは格式的建築とでも言いましょうか、社寺や宮殿、貴族の邸宅建築の流れです。
ここでの建築は大棟梁のもと様々な職方が一体化し、専門家による組織的建築作業により造られていました、まさに、現在の大建築会社による施工組織と同等です。
そして、ここには当然、中国や韓国の新たな技術やノウハウが逐次移入されたでありましょう。
もう一つの流れは非格式的建築、いわゆる庶民の町屋や民家であり、若干の職人たちか、農民という非専門家たちが、祖先から継承した様々な技術を駆使しながら、協同作業によって建築を造っていました。
建築美の表現においても、前者は崇高さや荘重さを、後者は合理的で気持ちが良いを第一としたのであり、つくり手たちの各々は、別々の価値観と別々の美の世界を追い求めてきたと言えるようです。
一つの国に二つの建築の世界が互いに合い関知もせず別々に進行していたのでり、「竹」は前者の格式的建築では全く使われることはありませんでした。
まるで無視といおうか、忌み嫌うかのように。
しかし、庶民の建築では全く逆で、中世の京の街はまさに「竹の風物誌」なのです。
従って「土壁」の発見はむしろ庶民であって、寺院建築の渡来とは異なる、庶民による「竹」と「土」の融合の技術によって、日本独特の「壁」が産み出されたと考えられます。(参考:左官は日本在来のもので、渡来技術に起源を持つものではない。鈴木忠五郎/建築ものはじめ考、新建築社)
そして平安時代の京のまちやや民家では当然、小舞竹と土による協同の産物が彼らの生活空間を形作っていたのです。
やがて近世を迎え、庶民の持つ田楽・猿楽や茶が「能」「茶道」として「格式化」「都市化」されたように、庶民の「竹」は、数奇屋造りの中に「建築化」されていきました。
「建築化」されると言うことは「裏方」ばかりの利用であった竹は、社寺や城郭、貴族の邸宅という「表向き」の世界にも登場し、さらに「桂離宮」に見られるように床、壁、天井、窓、とあらゆる所に技術的洗練と美的配慮を尽くされ、利用されるようになったということです。
桂離宮が造られる桃山時代、農業技術の発達にともなう生産力の増加は庶民の経済力の向上を導きました。
加えて社寺、城郭の大規模な造営が各地で頻繁におこなわれ、建築ブームにのって、たくさんの職人たちが生まれています。
今まで、町屋しか造らなかった職人が、社寺、城郭を造り、そしてまた戻り町屋や民家を造るというように、二つの建築の世界は交流が激しくなり、庶民の持つ様々な技術も、数奇屋造りや桂離宮という新しい美の世界の担い手となっていったのです。
その大きな担い手が「竹」であり、「竹の技術」です。
まさに「竹」による下剋上と呼べるものです。
しかし、その「建築化」により表舞台に立った竹は、何故かパワーを失ってしまいます。
中世の京の町並みを彩り、竹による様々な意匠を凝らした町屋の数々は、「能」や「茶道」が過去の形式として私たちの日常生活から見離されたように、「竹」はその後どんどんと、私たちの生活環境から遠退いていきました。
「竹」の衰退はこの100年ではなく、300年です。
300年という時代のスパンは、「美意識や生き方や価値観」という身近な観点ばかりでなく、「地球規模の社会、その社会構造全体」を見直す必要がある、と指し示しているのではないでしょうか。
垣根
現在、私たちの日常環境で竹が圧倒的に利用されているのは、「垣根」です。
そのデザインの種類は、なんと150を超えるといわれます。
大都会ではともかく中小都市では今でも、まだ「竹垣」が健在であることは興味深いことです。
自動車に襲われれば簡単に壊れてしまう「軽便」な竹垣が、なぜまだ多用されているのでしょうか。
そこには「竹としめ縄」による「ひもろぎ」や正月飾りの門松に示される、竹のもつ神聖さ、「地震が来たら竹薮に逃げよ」と子供のときに聞かされた、「竹林」のもつ安全さが、その物理的役割を超えて私たちの(精神)生活に深く記憶されているように思えてなりません。
竹垣の発達も竹の「建築化」の時代同様、桃山時代です。
茶の湯の成立、茶庭の路地による庭園様式の出現と里における竹林の一般化が竹垣の普及を促したのです。
工作しやすく良質な竹が手短な周辺から沢山産され、優れたデザインが茶の湯の文化の普及と共に一般化したのですが、ここでもまた「都市化」「建築化」に呼応する、自然の「庭園化」に深く関与したのが「竹」でありました。
しかし、竹の「建築化」が何故か竹の衰退を導いているように、自然の「庭園化」は、その後の私たちの生活を大きく変えていったのではないでしょうか。
私には、私たちの日常生活と自然とは一体的(共生)である、という本来の姿を見失わせる原因が、ここにあるように思えてなりません。
桂離宮
月の名所、桂離宮は淀川への注ぎ口に位置する水難の地、そしてまた、古くからの竹の植生の地でもありました。
舟運、魚取り、舟遊び、瓜見、花見、月見等には絶好であったとは言え、一度大雨が続けばまたたく間に、あらゆるものが水流に巻き込まれる、このような場所にあえて建築を決意をさせたのは、当時の水害防備技術に対し、かなりの信頼が寄せられていたことがわかります。
果たせるかな桂離宮はいくたびかの洪水をのりこえ、今日を生きています。
桂離宮を守る水防技術の一端は「竹」にあります。
堤沿いの「桂垣」、御門の両脇の「穗垣」、共に訪れる人を心なごませる美しさですが、この「竹垣」が洪水の時、襲い来る水の速度を和らげ、土石の侵入を防ぎ、桂離宮を今に伝える重要な役割を果たしたのです。
「桂垣」はその姿から笹垣と思われていますが、実は耐水性のよい「淡竹」を生えたままに折曲げて編み付けられています。
垣根沿いには、ほぼ10メートル間隔に欅が植えられ、垣根の裏側は折曲げられた「淡竹」と共に、「真竹」が蜜植されていて、竹林と欅による協働で、襲いかかる水流を和らげ、石礫を濾過し、土砂の流失を防いだのです。
御門脇の「穂垣」は数十センチメートル間隔の太い半割りの竹を支柱に、竹の細い穂先が横に厚く束ねられています。
この「垣根」は明治になって「桂垣」にかわって設けられたものだそうで、水防備の機能の程度は明確ではありません。
しかし、土塀や板塀では不可能であろう役割を果たすことはまったく事実なのです。(桂垣、穂垣の説明では大熊孝著「洪水と治水の河川史」を参考としました)
桂離宮は17世紀中庸、約50年間に渡って段階的に造営されています。
その頃は、公家や僧侶が中心の王朝風文化と、武家や商人による能や茶の湯の文化が重なり合った時代でした。
建築様式も「書院」と「数寄屋」が交じり合い、戦争に明け暮れた時代を乗り越え、新しい文化を創りつつあったのです。
その桂離宮には「竹垣」ばかりでなく、屋根、天井、壁、窓、床と「竹」の持つ機能性、精神性、造形性、簡素な美しさが、巧みに折り込まれています。
とくに月波楼の天井や賞花亭の大窓、竹の雨どいには工芸化された竹には表現できない、自然性、直裁性、時間性を見つけることができ、「竹」に視点を置いて「桂」を見ると清楚、明澄、単純、簡浄、透明、永遠とは異なる、ハイブリッドな、したたかな、たくましい、庶民性を持った桂離宮が発見できるように思えます。
竹は耐久性が短い、虫がつくと始末が悪い。
しかしそのような竹を、時には生きたまま、あるいは周到に伐期を読みながら、身の回りから手軽に調達し、壊れたら直し、絶えず修理し、メンテナンスすることで形を整え、継承していく。
これが桂離宮であり、西洋の永遠性や記念性とは異なる、日本あるいはアジアウォーターフロント共通の「時の継承」の技術、自然と対話した環境技術です。
ここに見いだされる「時の流れに対応する技術」、この技術を私たちは現在、「竹」と共に「桂離宮」に置き忘れてしまったかのようにおもえてなりません。
今、「竹」も「建築」もあまりにも矮小化されてはいないでしょうか。
共に、再び「自然」の真只中にドーンと据え付けてみる必要があります。
そうすれば、開かれた自然との新たな関わりの中から、新しい、大らかな「竹」と「建築」を再び発見できるに違いありません。
by leporello1
| 2012-04-08 20:17
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