2011年 09月 24日
地図のない道 須賀敦子 |
須賀敦子の「地図のない道」を読んでいた。
ヴェネツィアの広場と橋と島。
それも観光客はあまり関わらない、ユダヤ人のゲットとザッテレのデリ・インクラビリ。
彼女のパラーディオ建築への見識は「時のかけらたち」に充分に示されているが、このヴェネツィアだけにまとをしぼった「地図のない道」には彼女の建築への本心のようなものが克明に記されていてとても興味深い。
「・・・あの石の虚構を極限にまで押しすすめたような、レデントーレ教会のファサード・・・。これを設計した建築家パッラーディオは、もしかしたら、完璧なかたち以外に、人間の悲しみをいやすものはないと信じていたのではなかったか。しかし、同時に、完璧な世界、すなわち、当時パッラーディオもふくめたこの島の知識人たちにもてはやされたユートピの思想さえ、虚構を守ってくれるはずの石を海底でひそかに浸食しつづける水のちからには、いつか敗退する運命にあるという意識が、どこかで彼らを脅かしていたからではなかったか」。(「時のかけらたち」)
それはパラーディオの建築を追いかけ、なんどかイタリアを訪れたり、美術書・建築書だけではつかみきれなかった彼の建築とその時代「マニエリスム」を須賀さんは「目から鱗」ように分かり易く、説明してくれている。
須賀さんは「地図のない道」で再びジュディッカ運河をはさみデリ・インクラビリとレデントーレを対峙させ語っている。次のように語っている。彼女はそこで書くべきこと、書かずにはいられないことのすべてを書き尽くしているように思える。
「・・・河岸に立つと、対岸のレデントーレ教会がほぼ真正面に望めた。私がヴェネツィアでもっとも愛している風景をまえにして、淡い、小さな泡のような安堵が、寒さにかじかんだ手足と朝から不安で硬くなった気持ちをいっぺんにほぐしてくれた。」
須賀さんがヴェネツィアを訪れたのは確か、愛するペッピーノを失ってからがすべであったはず。
「・・・いっぺんにほぐしてくれた。」
ほぼ読みつくしたであろう、彼女の記述。
それは人と建築の貴重な出会い、この「・・・いっぺんにほぐしてくれた。」に触れ、はじめて彼女の著述の全貌に触れた思いで、・・・・読後涙ぐんでしまったのを記憶している。
ボクはレデントーレは何度も訪れた。
その建築の内部空間は白一色に包まれた清々しい光の空間。
外部も内観もすべてパラーディオの持つ古典主義的建築言語で語られているが、
しかし、その世界は見まがうことなく現代建築、そう、彼は16世紀にすでに20世紀の建築を超えていたのだ。
そして重要なのは須賀さんも書かれているそのファサードとそれを眺める位置の問題。
そのファサードが示すメッセージは、水の空間、運河そのものを「人々が集う広場」と見立てることで初めて読み解けるものとしてデザインされている。
彼岸のジュディッカ島の岸辺からでは近すぎる、此岸のザッテレからは遠すぎる。
建築の持つスケール感に最大の苦心を重ねているのがパラーディオ、この教会はその典型の一つ。
レデントーレを読み解こうとするなら、どうしてもゴンドラを浮かべ水の上から眺めなければならない。
そんな趣向の意味深い建築だが、年に一度ジュディッカ運河に仮設の橋を掛け、対岸のデリ・インクラビリから徒歩で渡れる祝祭があるそうだ。
デリ・インクラビリとは「梅毒にかかりもはや治療の見込みがない高級娼婦」たちが収容された病院のこと。
ヴェネツィアの水は人と人、時代と時代を隔てるものであるかもしれないが、そこにはいつも繋ぐ装置も隠されている。
水の都市ヴェネツィアはどの時代も観ることを上回り音楽でありオペラが体感される都市なのだ。
それはまさに人間により生み出された「人と人を繋ぐメディア」、「地図のない道」に他ならない。
by leporello1
| 2011-09-24 22:57
| book
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