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2012年 05月 20日
2012年 05月 18日
刑事ベラミーを観る、フランス映画未公開傑作選、イメージフォーラム。ジョルジュ・シムノンとジョルジュ・ブラッサンスにオマージュを捧げたヌーヴェルヴァーグを代表する「フランスのヒッチコック」クロード・シャブロルの遺作、という映画紹介を見て出かけることにした。 なんとも欲張った宣伝文句だが、シャブロルの遺作で「メグレ警視」のシムノンへのオマージュと言われれば見逃すわけにはいかない。 かって、フランスのヌーヴェルヴァーグの波が日本にも押し寄せ、ボクも毎月「カイエ」という雑誌を楽しみにしていた。 「ユリイカ」や「現代思想」に似たような装丁で、文学、映画、建築、美術、音楽を肴にし日本の若き文化的スノッブを虜にしていた雑誌。 残念ながら1年余りで閉刊になってしまったが。 記憶では「カイエ」とはポール・ヴァレリーが書きためた雑記のことを言い、その後、ヌーヴェルヴァーグの映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」に由来している。 シャブロルはその「カイエ派(右岸派)」の映画作家、「美しきセルジュ」「いとこ同志」「石の微笑」「引き裂かれた女」などを作り、「赤と青のブルース」や「ゲンズブールの女たち」に出演した、文字通りカイエ派ヌーヴェルヴァーグそのものの人であり作家。 見終わった感想としては、ボク自身はもうヌーヴェルではない。 あまりにも日常的な映画作りで、2時間余りはちょっと長く感じた。 南仏の街セートが舞台。 ここはヴァレリーの街だが、ヌーヴェルヴァーグ時代のギターの弾き語り、反体制詩人ブラッサンスの生まれた街、彼の墓もあり、彼ら詩人を良く知る人にとっては聖地であろう。 エンディング近く、彼の詩のテロップが流れる。 それはオマージュどころか、シャブロル自身の遺作となってしまったこの作品で彼が言いたかったのは、この言葉ではなかろうか。 ネタバレになるから言葉は記さない。 無給休暇中のパリ警視をタイトロールとした保険金殺人事件、しかし、スリルとサスペンスは全くない。 描かれるのはシムノン・ファンなら判る、どうにもうまくいかない人々の人間模様と微細な心の触れ合いそして、すれ違い。 物語はブラッサンスの墓地下の海岸の黒こげのクルマと死体から始まる。 タイトロールである著名なパリ警視とその麗しき夫人。 その二人の家に転がり込む刑務所上がりの警視の弟。 仕事を放り出しマッサージサロンの若き女性との新しい生活を夢見る夫と病弱で生きる張り合いを失った妻。 同棲していた恋人と別れ、路上生活を選択するブラッサンスかぶれの男。 ヌーヴェルヴァーグだ、これ以上の説明は必要ない。 面白かったのは、村上春樹の言う「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のシーンがそのまま挿入されていたこと。
2012年 05月 18日
![]() まだ寒かった3月の始め、芸大の帰りにたまたま寄ったのが最初だが、その後、気になり併設のピラネージ「牢獄」展を含め結局、3回も見学してしまった。 もっとも、3回も観たとは言え、気になることが解決したわけではない。 この時代の絵画や建築の特徴、カプリッチ(気まぐれ)、その真意はどこにあるのか。 ピラネージの「幻想の牢獄」から始まり、ユベール・ロベールの古代憧憬画。 ブーレ、ルドゥ、ルクーの「幻想の建築」をみると、同世紀の後半、建築にもカプリッチは引き継がれた。 共通しているのはルネサンスからバロックの統一的透視画法は歪められ、スケールは巨大化し、人間は朱儒となり矮小化されて描かれていること。 ピラネージの版画の持つ現実と虚構が一体となった作品群。 それはグランドツァー客向けの土産物として出版され、北ヨーロッパの多くの人が共有した理想都市でありアルカディア。 しかし、その最初の出版は「幻想の牢獄」に表現されたサディスティックな静寂世界、そこはもう人間の共生の場としての建築の意味とはほど遠く、孤独な個人的な世界だ。 その後、パリよりローマを訪れ、古代憧憬として描かれたユベール・ロベールのサンギーヌによるスケッチ。 それはピクチャレスな風景画ということだろうが、もはや神話も建築的カノン(規範)も失ったバラバラな人間社会にすぎない。 描かれた世界はアルカディア・ローマだがすでにリアリティを失った幻想舞台と言えるのではないだろうか。 18世紀後半、ルドゥは牢獄ではなく理想世界を描いている。 ![]() そしてボクに見えてくる、この一連のカプリッチは現代の建築世界そのもの。 意味もないバラバラな世界、美しいかもしれないが、感情を持った生の人間が不在の個人的世界。 もっとも、18世紀のカプリッチは多くの観客を惹き付けたが、現代建築の100年後の廃墟がこの展覧会のように後世の人々に憧憬されるという保証はどこにもないのだが。 つまり、ここには近代の始まりと現代の終焉、そのすべて展示されているような気がしてならない。 今回の展覧会には登場しないが、ヴェネツィアの風景を28枚の連作に仕上げたカナレット、さらにティエポロの版画集「空想のたわむれ」もまた同時代の作品。 そんな一連の版画集を観ながら思うことは「夢と現実が入り交じった世界」とは何か、それは現代建築そのものに酷似しているが、その始まりは18世紀のオペラの舞台の中に描かれていた世界ではなかったか。 ![]() ピラネージの牢獄は間違いなくこの劇場装飾を引き継ぐもの。 ピラネージのエッチングは全て、グランドツァー客が持ち帰る土産物として制作されている。 同時代のプルチナーニやビビエーナのオペラ舞台画は宮廷の権威の印、その記録として残されていた。 しかし、これらの先駆はすべて舞台の中の幻想世界であったことに留意しなければならない。 その世界はフィクションだが意味のある世界、物語としての人間世界がプロセニウアム・アーチの中に完結している。 そして、その世界はあくまでもフィクションであり、虚構の世界であることを少なくとも観客は理解していた。 気になることはこの辺り。 夢と現実をプロセニウアム・アーチで切り分ける手法を失った現代の我々は日常的人間世界をオペラの世界と混同視していないか。 オペラの中に描かれた文学と音楽と建築の世界、それはあくまでアーチの中の別世界、虚構の世界であるからこそ、虚構と幻想、巨大スケールとバラバラな空間を物語として眺め、古代を憧憬出来たのだ。 20世紀以来、プロセニアムアーチは存在せず、虚構と現実の額縁を失い、個人主義的欲望の中に人間的感情を求めている。 そして、本来虚構であった建築は虚構であることを止め、合理的経済の道具と化す。 21世紀、帝国化したグローバリゼンションの中、建築は虚構化した巨大スケールが前提となり、朱儒たる人間を阻害する。 しかし、プロセニアムアーチを失った我々は虚構と現実の区別もつかず、その場限りの日常世界に一喜一憂している。
2012年 05月 14日
「寒い国から帰ってきたスパイ」「スクールボーイ閣下」等は冷戦時代の英国諜報部M6(サーカス)を描いた70年代のベストセラー。ジョン・ル・カレが書いたジョージ・スマイリーは同時代のジェームス・ボンドの対局にある、中身の濃い本格的エージェント。 ション・コネリーのボンドは欠かさず見たが、スマイリーも早川から翻訳される度に神保町出かけては買い込み読んでいた。 「テインカー・ティラー・ソルジャー・スパイ」は失脚したスマイリーが復活し、エージェントからコントロールになるまでの話。 「裏切りのサーカス」はこの小説の映画化であることを実は最近まで知らなかった。 まさか、ジョージ・スマイリーが映画になるとは考えてもいなかったから。 もっとも、スマイリーものはすでにアレック・ギネスでTV化されている。 それを知ったのもごく最近、残念ながらボクは一つも見ていない。 今晩の有楽町の館内はほぼ満員、聞いてはいたが大変な人気だ。 70年代とは異なり、いまはインターネット時代、 チケットは人気の割には容易に手には入ったので良かったが。 館内はボクと同世代が多い。 みんな、かってのル・カレのファンというところだろうか。 実に良くできた映画だ。 読んでいた記憶があるせいかもしれないが、二重スパイの筋立ては決して難しくない。 頭脳戦であることは変わらないが。 映像をしっかり見ていれば読んでいなくとも、誰がモグラかすぐ判る。 良く出来ているなと思うのは、小説としてではなく映画としてしっかり出来ている、と感じたから。 最近のこの手の映画の特徴、時系列が錯綜する作りだが、時間差を巧みに映像で描き分けている。(ネタバレになるがスマイリーのめがねとかのファッション、店や町という空間のしつらえなど) この映画は決して単なる小説の映画化ではない。 アカデミー脚本賞ということだが、この映画を支えているのはまさに脚本だ。 台詞が簡潔。 小説のように言葉で理解しようとするのでなく、映像をしっかり読むように作られている。 ボクでも判る、それほど難しい英語ではないから、字幕を追うより映像を見落とさないように。 あの、コンパクト鏡、なんとも色っぽい。 あの、クルマの中の蜂のうごめき、言葉以上に語っている。 この映画はいつになく男たちの涙が多い、一言の言葉もなく、映像の奥深く。 脚本とは小説から台詞を抜き出すことではなく、映画にすること。 そして、ここには小説では表しにくい人間の確執が事細かに描かれている。 そう、この映画はむしろ恋愛映画だ、青年と老年の二組と様々な人々の繊細な関係。 エスピオナージだからこそ描きやすい、不確かな環境と不安定で不可解な人間世界。 音と映像そして音楽も実に良い、多くを語らず、観客の想像力が決め手。 小説としてもやや複雑難解な「テインカー・ティラー・ソルジャー・スパイ」をまさに映画として巧みに作り上げた名作。 映画好きなら何度でも楽しめそう、お勧めです。
2012年 05月 11日
![]() ![]() 「夢は夢を持つ人には微笑む」、そんな感想の映画二本を一度に観る。 ソーシャル・ネットワークとマネーボール、飯田橋ギンレイホール。 フェイスブックとアスレティックス、ITと大リーグが舞台なので関心がなかれば退屈な映画。 しかし、グローバルな社会をデジタルに捉えデジタルに解決する、そして、その底にあるものは恋と夢、どの時代にも共通するサクセスストーリーと解釈すれば万人向け。 かってアップル誕生も熱かったが、今もアメリカの若者はすこぶる熱い。 震災と不況で低迷する大人社会への格好なパンチ、楽しい映画です。 フェイスブックに関わるナップスターのショーン・パーカーも面白かった。 リーナス・トーバルズのリナックス開発、グーグル誕生を描いたサーチ、どちらも本を読む限り、マーク・ザッカーバーク同様とても魅力ある若者だ。 この辺りの映画も可能なら見てみたい気がする。 サクセスを支えるもの、それは全て「夢を夢で終わらせない夢」ということなのでしょうね。
2012年 05月 11日
![]() 無名のジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を発行した書店として知られる「シェークスピア・アンド・カンパニイ書店」がBSの「パリ5区リシュリー通り」紹介番組に登場した。 シルヴィア・ビーチのこの店は戦前の「パリのアメリカ人」、ガトルード・スタイン、ヘミングウェイ、エリオット等のたまり場。 この歴史ある書店はいまでも健在、イギリスで演劇を学びパリに戻った若い女性が現在の店主。 観光客ばかりでなく、多くの文学志望の若者たちの文化サロンとなっているということ。 覗いてみたいですね、Tumblrにたくさんアップされていましたのでリンクしました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
2012年 05月 08日
![]() 今年のMETライブビューイングでもっとも楽しみにしていたのはマスネの「マノン」、ネトレプコです。 彼女のマノンはYoutubeではすでに大人気。 2007年のウィーンではアラーニャ、2010年のロイヤル・オペラハウスではグリゴーロ、そして今日のメトではピョートル・ベチァワを騎士デ・グリュー役としての、つまり当代きってのイタリアの3人の美男テノールを相手役としての官能的なソプラノです。 彼女はすべてに魅力を持つ現代のディーヴァ。 そして今日のオペラはその持ち味を充分に発揮しての小悪魔マノン。 男性ファンならず誰もが観てみたい、聴いてみたいと思うのは当然です、その2幕・4幕は特に圧巻。 これがオペラ!、と思ってしまいます。 これがオペラなのです、(Youtubeをご覧ください)まぁ、彼女ならではかもしれませんが。 17世紀のモンテヴェルディのヴェネツィア・オペラはどれもこれも官能的魅力にあふれています。 しかし、最近のオペラはどうも慎ましやか、ボクの偏見でしょうがそう思っています。 今日のネトレプコどうしてどうして、そしてその歌はどこまでも爽やかです。 ロシア生まれの彼女、ゲルギエフに鍛えられたそうですが、その人柄はどんな役でも魅力一杯。 「マノン」の魅力はオペラ・ファンより文学ファンのほうが詳しいのかもしれません。 アナトール。フランスの言葉だったでしょうか、「マノン・レスコー」を書いたアベ・プレヴォーはダンテにもシェークスピアにもゲーテにもスタンダールにもなし得ない、もっとも魅力ある女性を世に送り出した、と言っています。 その魅力は岩波文庫でも味わって下さい。 絵画ですが、一端は同時代のブーシェの「ソファーに横たわった少女」が伝えてくれます。 オペラではプッチーニの「マノン・レスコー」と今日のマスネ「マノン」の二作あります。 どちらが良いかは好みでしょうが、最近はネトレプコの熱演でマスネが目立ちます。 昨年のメトは確かプッチーニの「マノン・レスコー」。 ボクの好みはマスネです。 彼の方がどちらかというと様式化されていて、プッチーニに比べ筋立てがやや解りにくい。 しかし、その全体はやはりフランスで生まれたオペラですね、とてもスマートです。 音楽も比べてみるとプッチーニはメローでドラマチック。 マスネはどこまでもロマンチック。 今日のメトの舞台は五幕ともスロープを多用しています。 このオペラの持つ愛し合う二人の持つ不安感・不安定がうまく表現されていると思いました。 (演出はロラン・ベリー、指揮はファビオ・ルイージ) 今日は観ていて、椿姫のヴィオレッタを思い出しました。 考えてみると原作はどちらもフランス、純粋だが薄幸な娼婦のお話しです。 ヴェルディとプッチーニというイタリア人のオペラにはいつも泣かされてきましたが、 このフランス語のオペラもなかなか胸に迫ります、相変わらずの語学音痴ではあるのですが。
2012年 05月 05日
2012年 05月 05日
![]() 16世紀の近代劇場の誕生以来、作品を上演する上で積極的にオペラ劇場という建築に強く関わったのはリヒャルト・ワーグナーだけです。 劇場はオペラの上演のみが目的で作られたものではなかったからです。 さらにまた、いざ作ろうとすると、オペラ劇場ほど融通の利かない建築はない。 舞台と客席と言う相反する二つの巨大スペースを必要とし、そのどちらにも巨額な設備と装飾を掛けなければならない。 やっと出来あがっても、オペラ劇場はオペラの上演以外ほとんど使い道はなく、古くなった後、他用途への転用もままならず、使われなくなれば壊すしか方法がなかった。 多くの人に愛され利用されている最中にあっても、オペラ劇場はちょっと油断すればすぐ火事で焼失する。 しかし、オペラほど舞台と観客の分離をこれほど完全に必要とする演劇形式は無いにもかかわらず、観客と舞台がこれほど一体となった同じ感情に満たされる演劇形式もまた他にはない。 オペラは舞台上だけでなく、劇場全体の雰囲気もオペラの体験には必要不可欠なものなのです。 したがって、バロック宮廷劇場以来のオペラ劇場という建築の持つ娯楽性もまた、19世紀の市民文化の中でも消え去ることはない。 合い矛盾するいくつかの課題を抱えた建築形式ではあるが、歴史経過から見る限り、オペラ劇場は結局、天才建築家を必要とはしなかった。 <見る・見られる>関係の深化と巨大化以外、その形式に新しいものを要請するものは何も無いのだから。 事実、ヴィチェンツァにテアトロ・オリンピコが誕生して以来、オペラ劇場は様々な洗練とバリエーションは繰り返されるが、新たな空間的独創性はどこにも発揮されていません。 舞台と客席、分節された二つの空間、前者は方形、後者は馬蹄形、各々は合い異なるボリュウームを持つが、一つの劇場建築という視覚上の要請から、その調整のため客席の天井高は恐ろしく高いものになってしまう。 唯一、ワーグナーのみがこのアンバランスを次のように指摘している。 「伝統的劇場は舞台の高さに客席の天上高を合わせようするあまりプロセニアムの頂部よりも高いところにまで天上桟敷を作ることになり、より貧しい人々はオペラを鳥敢的にしか楽しむことが出来なかった」と。 結果、彼は音楽家でありながら建築に直接関心を払った唯一の人であり、彼の持つ音楽的情熱が画期的な劇場建築(バイロイト祝祭劇場)を完成させた。 ![]() ![]() 2010年10月3日記
2012年 05月 02日
![]() イタリア映画のエキスのすべてを95分にまとめた上質の映画。 よく見る典型的なイタリア映画のパターンだが決して陳腐ではない、 内容は新鮮、センスが良い。 ヴィルズィ監督の脚本家であったブルー二が監督に転じた第一作ということだが、 新しい作家が登場したように思う。 題名がすべてを語っている、シャッラ! イタリア語を知らなくとも感覚的に良くわかる。 これでいいんだから、ほっといてくれ、それでいい! 結構切羽詰まっているが、思い通りにやってみよう、やらせよう! どこにでもいる15歳の男の子と中途半端な父親のシャッラな同居生活。 シャッラ!だけに、本音をぶっつけあっての二人の生活はトラブルつづき。 シャッラ!だけに、教条的な人間論、家族論、教育論などは一切、意味がない。 シャッラ!だけに、二人は決していい加減ではない。 「人間は人間として生きる」というあたりまえのイタリア人の持つ本音。 シャッラ!という言葉が持つこだわりとリアリティがボクにはうらやましい。
2012年 04月 30日
![]() まだ間に合い、手に入れた「シュン・リーと詩人」を観る。 とてもおもしろい映画だ。 放映後、舞台に監督アンドレア・セグレ氏が登場した。 作品の印象から、もうちょっと年輩の監督かと思っていたが40代前半だろうか、いままでドキュメント映画を作っていたと言う。 彼はすでにこの作品でいくつかの賞を取っているが、イタリア・アカデミー賞の新人監督賞にもノミネートされている。 主役は中国人女優チャオ・タン、彼女も主演女優賞候補。 セグレ氏はシンプルで奥深い表現が可能な人、ということでシュン・リー役に彼女を選んだと言う。 映画はシュン・リーの物語、まさにシンプルな作品。 しかし、ボクには様々な問題と読み解きを許したとてつもなく奥深い作品に思えた。 セグレ氏は一言、西洋と東洋の出会いを描いた、と言っているが、グローバルな現代社会の叙事詩として作られている。 ヴェネツィアのラグーン、キオッジャの町、パラディーソと言う名の居酒屋が舞台。 年老いたベーピ(ラデ・シェルベッジア=助演男優賞候補)と年金生活者そしてラグーンの漁師仲間のたまり場だ。 パラディーソは最近、中国人がオーナーになった店。 8歳の息子と父親を中国に残し、シュン・リーはイタリアに移民しパラディーソに雇われる。 (セグレ氏はパラディーソは今でも本当にあると言う。キオッジャは彼の母のふるさと、かってその店には中国人女性が働いていたそうだ。) アクアアルタに見舞われるこのラグーンの小さな町もグローバリゼーションの最前線。 シュン・リーは福州の詩人屈原の詩を好む。 ベーピは30年前たった一人、ユーゴからこの町にやってきた異邦人。 詩人ではないが韻を踏んで話すので仲間たちから詩人と言われている。 そんなベーピとシュン・リーが心を通わす。 映画を観ながら、しきりとアントニオ・ネグリの言葉が思い出された。 「グローバリゼーションは古代のローマ帝国に似ている。」 パラディーソは帝国支配の辺境かもしれない。 いや、現代社会どこの町も辺境。 そんな妄想から、ボクにはこの物語が神話的叙事詩に思えてならない。 たどたどしい会話が優しく耳に響く。 日常的で曇天ばかり、観光では観ることがない静かなラグーン映像が目に残る。 その水辺にやがて放たれる赤い炎。 水に流れる屈原の祭りも赤い炎。 映像がフィードバックするとピアノとソプラノリコーダーの歌が始まる。 悲しくもないのに、なぜか涙がにじんだ。 叙事詩はベーピやシュン・リーだけではない、自分自身の物語でもあるからだろう。
2012年 04月 28日
フランス映画未公開傑作選は先週21日からだったようです。予告で気に入ったので「三重スパイ」を観る、宮益坂。 ある夫婦の人生と世界戦争の前夜が交錯して描かれる、感動的かつ親密な叙事詩。 紹介にはそのように書かれています。 亡命した帝政ロシアの将軍とそのギリシャ人の夫人。 1930年代の政治ドキュメントが物語の背景です。 人民戦線とスペイン戦争、ナチ・ドイツが絡まるパリの政治情勢の中に描かれる夫婦像。 かなり欲張りな映画と同時にいささか歴史的知識が必要なようです。 そう、いままで公開されなかった部分のエリック・ロメールです。 エスピオネージ、スリラー、ヒストリカル、ラブドラマ、なんでもあります。 ボクの関心はドラマの背景となるエクステリア&インテリア。 戦前のパリの街路、ファッションとクルマ、そしてアパルトメントとホテルとパリ近郊の別荘。 さらに旧制ロシア好みの情景画にキュビスム絵画です。 そして画像の全て、計算されたあかりとひかり。 やはり、エリック・ロメールです。
2012年 04月 27日
![]() サンギーヌと呼ばれる赤チョークで描かれた古代ローマの廃墟のスケッチから始まるユベール・ロベール展は18世紀がまさに近世と近代の狭間にあることを実感させる。 神話もコスモロジーも失われた同時代、アルカディアは風景に変わり、建築は本来の意味を失い、風景を飾る点景となった。 つまり、ユベール・ロベールの時代の絵画そして建築はもはや集団的意味を担うものではなく、個人的な夢と希望に貢献する古代憧憬。 ゲーテを含めアルプスの北の人々が訪れたアルカディア・イタリア、古代どころか16世紀の建築も廃墟として描いている。(ヴィラ・ジュリアやヴィラ・デステ) ピラネージやフラゴナールを師としたと言われるユベールだが、彼のイタリアでのスケッチは必ずしも忠実に目の前の情景を描いたわけではない。 それはカプリッチョ(奇想画)あるいはヴェドゥーダ(風景画)と言われるもの。 画家がイメージする空想の風景あるいは生活情景として描かれる。 近世と近代の狭間だなと強く意識させるのはこのような作品。 ユベール・ロベールのパトロンであったのは旧体制の貴族であろうが、彼らが必要とするものは権力維持や社会の秩序化を目的としたルネサンス絵画とは異なり、どこまでもパトロン個人あるいはユベール自身の個人的世界に関わっていく。 つまり、それはどんなに多くの賛美や同調を得ようとも、絵画は欲望や憧憬のみに答えるもの、個人主義あるいはロマン主義の先駆けだ。 展示は17世紀のクロード・ロマンから始まり、フランス革命を超え19世紀初めのジャック・ドリールの書「想像力」にまで及んでいる。 面白かったのは西洋美術館が所有するピラネージのエッチングを数多く展示してくれたことと、ヴィンケルマンの古代美術史やルソーの「新エロイーズ」にも出会えてこと。 連休前の会場だが、修学旅行生たちの熱気で館内はかなり賑わっていた。 しかし、ピラネージの「牢獄」を併設展示している地下室まで降りると、そこは展示物同様、閑散として冷ややか。 たまたまだが、ここのところピラネージを読むことが多かったボクにとって、思いがけないプレゼント。 時間が経つのも忘れ、終日コルビジェの建築内を徘徊した。
2012年 04月 24日
ドン・ジョヴァンニ、オペラパレスで観る。4階中央席から観るオペラの舞台は、ほぼ正方形のプロセニアムアーチ(額縁)の中のまるで絵画を見ているような印象。 17世紀のヴェネツィアオペラはスペクタクルな動く絵画として、アルプスの北から訪れるグランドツァー客を魅了していたと言われている。 DVDで見るラ・スカラやメトのヴェルディー・オペラは時々、あれこの舞台、カラヴァッジョの絵画そのものと感じさせることがある。 今日の舞台はまさに絵本の中の世界のようだ。 幕が開いてのドンナ・アンナが誘惑され、騎士長が殺される水辺のシーン、ツェルリーナとマゼットの結婚パーティのシーン、二幕の森の中、そしてドン・ジョヴァンニの館での晩餐シーン、きらびやかに着飾った主役ばかりか、ダンスに興じる村人たち、館の召使いたち、そして晩餐で演奏する楽師たち、みな色鮮やかに18世紀特有のシンメトリーを強調した舞台の中で躍動する。 本公演の舞台はさすがに豪華、視覚的にしっかりと演出されている。 そして、前回のオテロに引き続き今日もまた舞台はヴェネツィア。 17世紀のグランドツァー客と同じように、オペラパレスの舞台はヴェネツィアがピッタリのようです。 そうだ、2008年のこの劇場でのドン.ジョバンニもたしか、ヴェネツィア。 この公演のカヴァー歌手による演奏会形式のオペラの感想はすでにブログにした。 http://leporello.exblog.jp/18078516/ その内容は偏見ばかりのドン・ジョヴァンニ解説だが、今日の舞台はまったくオーソドックス。 まさにドン・ジョヴァンニ(マリウシュ・クヴィエンチェン)とドンナ・アンナ(アガ・ニコライ)が主役のオペラです。 内容は勧善懲悪、誰にでもわかりやすい演出です。 一つ面白かったのは、終幕のアトリビュート。 バラの花束、遊園地のナイトの馬、墓にかかる黒いリボン、そしてコートとカタログ。 大きな女性のマリオネット(カタログの歌の背景でドン・ジョヴァンニが操る)は残りましたが、誰が何を手にし、舞台から消えたか、分りやすいですね。 そして気がつくのは、モーツアルト・オペラすべてに言えること。 二重唱、三重唱、六重唱、どのアンサンブルもみな力強く美しい。 さらに当然、今日はフルのオーケストラ。 緩急のメリハリのあるピットからの響きはやはり本公演ならではの感動でした。 http://www.atre.jp/12giovanni/
2012年 04月 23日
![]() イタリアの家族経営はフィアットが有名だが、ルチーアーノ、ジュリアーナ、ジルベルト、カルロの4兄弟が力を合わせ成功させた企業としてボクは記憶している。 その企業精神は「庶民的な価格で最高の品質を提供する」、「使い捨てのファッションであってはならない」。 ベネトンを知ったきっかけは、ヴェネツィアの近く(ベネト)の16世紀のヴィラを買い取り、事務所、住まい、さらに工場として利用し、豊かな環境の中で仕事をしている、と聞いたこと。 「優れた商品やアイディアは優れた環境でインキュベートされる」、これはかって友人と一緒に進めていたライフスタイル研究会のテーマの一つだった。 ベネトンまさにその実例、その研究成果をいろいろなプロジェクトに反映させようと試みていた。 同時期(90年代)、世界でもっとも注目されたのはベネトンの広告。 ディレクターはたしか、オリピエロ・トスカニーニ。 有名な指揮者と同性なので良く覚えている。 トスカニーニは「広告はまやかしの幸福を描くのではなく、企業の社会的姿勢を示すものであるべきだ」と語り実践していた。 その広告はかなりラジカル。 商品はいっさい登場せず、人権問題や紛争、死刑制度などを取り上げ、センスとウィットに富むデザインでポスターやカタログを制作していた。 ボクにとって触発されることの多いベネトンだが、F1のコントラクターをルノーに売り、2000年にトスカニーニも退職するといつかすっかり忘れていた。 今朝TOKYOWebで「伊ベネトン会長引退へ、職務を息子に託す」の記事に触れ、なんとなく、ベネトンを思い出している。 ![]() ![]() ![]()
2012年 04月 20日
![]() 北京の頤和園の池に、石で作られた西洋風のアーチで構成された宮殿のような石船(大理石)が浮かんでいる。(清晏舫) 乾隆帝そして西太后が作った洋風の絶対沈まない船のことだ。 それは侵略を重ねる欧米列強に対する清朝中国の強烈な政治的メッセージだった。 一方、「愛書家の楽園」(白水社p16)によると、この石船のことが次のように書かれている。 「暗闇のなかで、窓に煌々と明かりがともり、ずらりと並んだ本がその光を受けて輝いているとき、書斎は閉ざされた空間となり、独自の法則が支配する宇宙へと変貌する。やがてそれは、外部に存在する曖昧な形の宇宙にとって変わり、あるいは裏返った宇宙のように見えてくる。」 なるほど、西欧の愛書家の書庫は夜には宇宙的秩序に守られた秩序ある天体としてイメージされ、その具体的なモデルの一つがこの石船のようだ。 一方、よく知られている引用だが「夜になって初めて、ミネルバの梟は飛ぶ」。 真夜中の静寂な闇に閉ざされた書庫をイメージすれば、そこは様々な妄想と思考が声高に騒ぎだす異空間。 遊歩者ベンヤミンならではの言葉だが、本好きなら誰でも、毎晩体験していることかもしれない。 ここのところ、必要があって図書館についていろいろ考えを巡らしているが、そうなんだ、我々はこの秩序ある天体に立ち、毎日、様々な眠りと覚醒を繰り返している。 今宵もまた居心地よく、遊歩者となり世界をさ迷うこととしよう。
2012年 04月 20日
アドリア海に面する古い都市ペーザロ。ロッシーニの生誕地であり、彼の名を冠したオペラ・フェスティバルが毎年7、8月のバカンスシーズンに開かれることは良く知られている。 実は、この町に画期的な図書館がある。 サン・ジャヴァンニ図書館。 歴史地区の古い修道院を利用し、「パサージュ」をコンセプトとしたユニークな公共図書館だ。 しかし、Google検索を日本語と英語で重ねているが、さっぱりまとものな情報が出て来ない。 確かにヒットするサイトは沢山ある。 ところが、その全てはボクの持つ情報源と同じ、「知の広場」の紹介ばかり。 パソコンに1時間も齧りついたが、見つからない時は見つからないようだ、大きな学習。
2012年 04月 18日
映画・少年と自転車を観る。男の子なら誰でも経験したことがあるだろう。 自分自身の思いと感情がバラバラで、相手が大きかろうが、強かろうが遮二無二ぶつかっていき、取っ組み合いの喧嘩をしたことを。 しかし、殴られようが投げられようが、力の限りに取っ組み合うと、どうにもならない相手の強さに対する畏怖、あるいは不思議なことだが手加減されているなと相手の優しさを感じたりもする。 そんな喧嘩相手だからこそかえって信頼し、やがて親しみも深くなる。 12〜4歳頃の真の友達なんてみんなそうして始まったんだ。 しかし、この映画の少年には真剣に取っ組み合ってくれる人がいない。 失職し妻に逃げられ少年を見放す父親。 保護司という制度だけの施設管理者。 口先と飴で少年を牛耳ろうとする不良。 被害者ずらし理不尽な息子を叱るどころが一緒にごまかそうとする情けない父親。 そんな現代の大方の人間関係のアナロジーの中に、たった一人少年と真剣に取っ組み合うエンンペラーが登場する。 いや、女性だが。 そう、面白いことにこの映画の主役はなんとベートゥヴェンのピアノコンチェルト第五番。 宣伝にある愛そして絆と言う言葉では説明できない真の人間関係。 力任せのペダルの踏み込みに応答するピアノの響きが、この映画が語りたいことの全て、とボクには感じられた。
2012年 04月 17日
![]() 福江島、久賀島、奈留島、中通島、野崎島と続く長崎の西海に位置するの五島列島はキリスト禁教の時代からの教会堂建築が今なお健在、ボクも5年前この列島を訪れた。 展覧会は上五島の中通島に生まれ、20代から教会堂建築に関わり、天寿を全うする97歳までの頭領としての仕事を紹介するもの。 今日まず驚いたのは写真家白石ちえこ氏が紹介された展示作品の全てをボクもたまたま訪れていたことだ。 五島列島にはたくさんの教会堂建築がある。 しかし、与助への関心、彼女と一致しているようだ。 それを感じたのは彼女の展示作品の最初は久賀島の旧五輪教会堂であったこと。 ボクの見学旅行でも、もっとも印象的だったのは初期のこの建築、そして、いまや無人島となったが野崎島の煉瓦造、中世の城のような外観を持つ旧野首天主堂だった。 白石氏の展示はその流れを明解に示していた。 ![]() その典型が旧五輪、さらに与助自身が全てを設計し施工した最初の仕事、その建築は生誕地に近い奈摩湾の南に建つ冷水教会堂。 二つの教会堂に示される初期の外観は全て典型的な日本の木造民家の形態。 しかし、切り妻本体に玄関とアプス部分を切り妻屋根の妻面に下家だししている。 教会をイメージさせる外観のデザインで最も重要なのは入り口部分をアーチで強調すること。 さらに後部の妻面の下家だしによる二つの切り妻の段差部分に窓を設け、巧みにアプス部分に光を導入している。 つまり、西洋の教会堂はまずは入り口と光とどう取り組む化だ。 そして次になるポイントはインテリア、内部空間とその天井をどう設えるか。 その後の煉瓦造になればますます洗練されてくるのだが、教会堂と言えばコーモリ天井で知られる、与助がもっとも苦心したリブボールトの天井。 本来の石造教会には技術上不可欠ちなるリブボールトだが、彼は終始様々な工夫を重ね、木造ハリボテコーモリ天井を作り続ける。 ![]() 教会堂は与助自身すべて一人でそのデザインに取り組まなければならない。 すでに日本でも知られ始めた煉瓦を用い、独自の教会堂を見よう見まね建てていく。 しかしここで重要なことは煉瓦造といっても構造体はまだ木造だったことにある。 煉瓦はその外側に外壁材として積まれていたに過ぎない。 野首天主堂はそんな煉瓦造。 だからこそ、与助にとって必要なことは煉瓦造に見合う外観をどうデザインするか。 結果として野首では中世の城がモデルだが、彼が得ようとしたヨーロッパ建築のイメージ、それはその後の本格煉瓦造さらにコンクリート造の時代に入っても、彼は新技術もを駆使し賢明に追い続ける。 それを学術的に疑似洋風と笑う人もいるようだが、ボクには、彼のその生涯の建築デザインは既存の技術をいかに未知の形態に適合させるか、あるいは新しい技術をいかに伝統的デザインに落とし込むか、その葛藤の結果として見えてくる。 そんな、5年前のボクの実感を明解に思い出させてくれた今日の展覧会。 一つだけ付け加えさせていただくと、展示スペースの問題だったかもしれないが、五島独自の椿をアレンジしたステンドグラスの数々の展示写真がなかったことがいささか残念。 ヨーロッパ教会のインテリアをイメージさせるには欠かせないもの、その疑似ステンドグラスが五島列島どこの教会堂でもなんとも美しく、涙ぐましく、ほほえましかったから。
2012年 04月 15日
![]() 来月5日までイタリア文化会館で開かれているマッシモ・リストリ写真展「奥行きへのまなざし」。マッシモ・リストリはフィレンツェの人。 世界中の文化財、歴史的建築を大型カメラで詳細に写し取る貴重な写真家です。 今回はヨーロッパの歴史的図書館を中心に多くの宮殿の内部空間を真正面から写し取り「奥行きへのまなざし」と名付け、その成果を全紙の印画紙に表現し展示しています。 その画面はあらゆる二次媒体で様々な画像を見慣れている我々ですが、まさにヨーロッパ文化の神髄、ムネモシュネ(記憶の女神、ムーサの母)の神殿がものの見事に立ち上がってくるかのようです。蛇足ですがアビ・ヴァールブルグがもっとも求めていたコレクションと言えるのではないでしょうか。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
2012年 04月 14日
![]() 小雨振る週末の午後、四谷荒木町を歩く会に参加した、主催は建築家協会新宿地域会。 市ヶ谷に住んで30年余り、知ってはいたが荒木町という花のある町を歩くことはほとんどなかった。 幸い、家協会の友人たちが誘ってくれたので、飲み会もかね、まずは歴史と文化そしてその独特の地形から生まれる町並みを体験する、ということで参加した。 山の手・下町と二分される東京の地形は、その凸凹に特徴があるが、江戸から発する主街道のすべては凸部分、つまり尾根に位置している。 当然、谷筋が街道防備の重要な役割を担うが、ここには御三家とその配下の大名が配された。 甲府は万が一の時の徳川家退避の場、甲府に通じる甲州街道の第一宿(内藤)新宿までの谷筋は東海道の大木戸以上の要衝の地。 従って、そこには尾張屋敷(今の防衛庁かっての陸軍省)と紀伊屋敷(迎賓館)が配され、その背後の四谷荒木谷には尾張一族の松平摂津の守(津の守交差点の由来)が街道を防備した。 摂津の守は土塁を築き水を満々と溜め万が一に備えたが、その名残が現在の「策が池」。 小雨に濡れる名物早咲きの「高遠の桜」はすでに葉ばかりだが、都心の池は今も健在。 マンションに囲まれた水たまりのような池だがそこにはコイが泳ぐ。 「江戸防備の役割を終え、やがて荒木町を都心の花柳界へと栄えさせた源の水」とコイが語っていた。(嘘) かっての「策が池」は景勝の地、その水際には茶屋に待合、料理やに芸妓(置屋)が集まり花街として栄え、さらに温泉まで作られ多くの東京市民、陸軍省の兵隊さんたちの遊興の地となった。 案内役は建築仲間だけではない、東京スリバチ学会の皆川さん、とんかつ鈴新の親方さらに新宿区の議員さん方が引き受けて下さり、なんと総勢70人を超える大集団。 グループに分けてとはいうが、案内役の方々のご苦労には感謝しなければいけない。 まだお店の明かりがない路地から路地を、小さな階段から階段を、まるで鰻の行列のように歩き回り、けっして風情を楽しむと言うものではないが、おかげさま、地形が生み出す町並み景観の面白さは充分に理解することができた。 皆川氏によるとここは東京の一級スリバチ、ということだそうだが、たしかに、最近のマンションの林立で、神楽坂のような和風の風情は消えてしまったが、その歴史と地形はけっして破壊はされていない。 小割りの家並は前後左右と上下様々に折り重なり、色もカタチもバラバラの建物の連続が醸すその景観は小道の変化とも相和し、いままで経験したことがない独特のもの。 スペインやポルトガル、イタリアとも異なる荒木町の多層迷路はたしか一級スリバチと言って良いのかもしれない。 路地に明かりがともる頃は残った仲間といつものように飲み会。 光楽亭をご用意いただき、花街の面影残す小間の座敷を楽む。 したがって、小雨とあかりの街歩きは今日はおわずけ。 戦後の建物開発で大半を失った東京の景観、しかし、歴史と文化と地形は健在、ほろ酔いながら、そんな実感がとてもうれしい。 とんかつやの鈴木さんとも仲良くなったし、遠からず通うことになるだろう。
2012年 04月 14日
2012年 04月 11日
![]() 媒体なしで事物と直接関わること、つまり生の体験ということでしょうが、ストラビンスキーもその体験と想像力を自分の方法としたようだ。オペラ「モーゼとアロン」は音楽を媒体とさせない音楽と言うことでしょうか。モーゼのように言葉と偶像とではなく誰もが直接の神と関わると言う体験をオペラにしたかったのでしょう。 via tumblr jasonweinberger: ‘I do compose at the piano … It is a thousand times better to compose in direct contact with the physical medium of the sound than to work in the abstract medium produced by one’s imagination.’ Igor Stravinsky on realizing musical ideas at the piano, and depicted in 1913 doing just that for the Rite of Spring. [Drawing by Jean Cocteau, quote from the composer’s autobiography]
2012年 04月 10日
![]() ヴェルディのオテロはボクのお気に入り、なんと言っても音楽が素晴らしい。 台詞部分も含め全てが音楽として作られたこのオペラ、ワーグナーとは異なるメリハリのあるメロディーがシェークスピアの言葉を紡いで行く。 様々なオペラをDVDで見るが、CDだけで楽しむことがあるのはこのオペラだけ。 ボクにとってオテロは耳だけでも良い、唯一のオペラです。 理由は簡単、オペラはいつも「言葉の意味と音楽の感情」を一致させて作られている訳ではないと気がついた時、ドラマの進行を音楽だけで追ってみようと思いついた。 シュークスピアのオテロはもともと速射砲のような台詞劇、言葉の意味を細々と追うドラマではない。 言葉が気になるなら、英語劇を観るのが正解だ。 物語を簡言すれば「劣等感を持った男が劣等感を持った男にだまされる悲劇」。 そもそもストーリーに大きな意味があるとは思えない。 オペラなんだから、愛し合う二人がただただ無惨に死んで行く哀しみを音楽で体験しよう。 だからこそヴェルディーは完璧な音楽をこのオペラにしこんだ。 オペラ通の誰もが指摘されることだが、第一幕の冒頭のデスデモーナとオテロの重唱は何とも哀しい音楽。 ドラマは戦地から無事戻り再会の喜びに浸るシーンのはずの音楽がどうしてそんなに哀しいのか。 まぁ、冒頭ゆえ、ドラマ全体を暗示したシーンだからあのような音楽、と言うのが大方の説明。 確かに、舞台脇に表示される言葉の意味と音楽の流れはブレブレだ。 しかし、そのメロディーにはうっとりさせられる。 好きなのは第二幕のイアーゴの一人芝居。 何とも憎々しい言葉の連続だが、しかし、ここの音楽もまた聴く耳を離させない。 短調の調べに載るイヤーゴの歌声はいつも言葉の内容にかかわらず聴き入ってしまうが、この二幕は彼の独壇場の音楽シーン。 そしてクライマックスの第四幕、「柳のうた」は大好きです。 確かに詩の意味はデスデモーナの心情を十分に語るもの、しかし、ドラマの流れとは無関係な挿入歌。 つまり、無関係であるからこそ、中国的イメージを含め最も美しい音楽をヴェルディは紡いでいる。 付け加えればロッシーニの「柳のうた」もまた聴き逃せない、大好きです。 Montserrat Caballé - Gioachino Rossini - Otello - Assisa a' piè d'un salice... と、まぁ、また余計なことを書きつらねたが、今晩のオペラも大満足。 舞台はキプロスのはずが何故かヴェネツィア。 しかし、水の上に渡し板を組み合わせたそのイメージはデスデモーナとオテロの孤立した悲劇を語るには十分すぎる設え。 歌い手の足下は不安定だが、歌そのものは水面の揺らぎや輝きとも重なって、素晴らしい音楽(感情)となり客席に響かせます。 もっとも喜ばせてくれたのはデスデモーナ役のマリア・ルイジア・ボルシ。 彼女、急遽の代役でしたが、素晴らしかった、歌も雰囲気も仕草も演技も。 弱音部分の中高音、ボクの席は例によって4階の最前列、オペラグラス片手の鑑賞ですが、その歌声は哀しくもしみじみと深く浸透してきました。 さらに好きなのはイアーゴ役のミカエル・ババジャニアン。 彼の首を傾げて歌うその内容は憎々しさを100%表現、しかし、歌そのものは言葉の意味を超え、終始そのメロディーの変化で酔わせてくれます。 そうか、演出はマリオ・マルトーネだったのですね。東フィルのオケもよく響き、子どもたちの合唱も完璧、素晴らしい一夜です。http://youtu.be/cJtma6zU-2k
2012年 04月 08日
今朝の東京新聞日曜特集版は「どうする?放置竹林」
西日本を中心に、全国的に荒れて放置された竹林が問題視されています。その原因や現状を図解します。 という内容。林業も同じだがいまや農家は高齢化、日常的に整備するひとが少なくなった、ことが主因。 竹は生長が早く森林や畑を占領していると言う。さらに、伐採しても持って行き場所がなく、竹やぶは光が届かず人が帰化づきにくく、植生が貧弱化するのだそうだ。 竹は本来、神が宿り、人を水災害からも守るとされていたが、いまや、放置され植物が少ない林床は逆に雨水等を一気に流しかねない状況。かろうじてボランティ団体がその整備にあたっているが荒廃はますます進んでいる。人の手が入らなければ自然環境は荒廃する。いまや自然に目を向けるならば、手を入れる仕組みづくりが求められているようだ。 何年か前、あるシンポジウムで話した内容をブログにしたことがありますので、その記事を再録します。ご笑覧下さい。 ![]() 竹の建築誌−1/屋根と床 この100年、私たちのライフスタイルは著しく変化しました。 特に最近の30年は、一気に都市化から情報化社会へ。 かっての都市と田園の境界は消え、身近な生活環境は全て都市化され、フラットで商品化されたコモディティな空間へと、その様相をすっかり変えてしまいました。 このドラスティックな生活環境の変化の中で、工芸品としてはともかく、建築材としての「竹」は、全くと言っていいほど姿を消してしまっています。 いや、「竹」がかって建築材として使われていたことすら忘れ去られているのです。 事実、ボクの仲間内でも、日常的な計画物件に「竹」を採用する人はほとんどおりません。 昔は、民家や町屋という庶民の建築では、「竹」は驚くほど様々なところで、自由闊達に沢山使われていました。 川島宙次氏の「滅びゆく民家」を見ますと、「竹」が床、壁、天井、屋根、それも仕上げ材であったり、下地材であったり、様々に形を変えて使われていて、とても、身近で有効な建築素材であったことがよくわかります。 さらに遡れば、中世の「洛中洛外屏風絵」には、板じき石置き屋根の竹の井桁組、竹の連子窓、竹の腰壁、竹の簾、街角には竹売りと、屏風絵の世界はまさに竹の風物誌となっています。 今日は、たまたま業務上の必要から「竹」を探す旅を試みました。 「竹」という素材が「建築」を通して語る、その内側の「世界」を読みとる必要が生じたからです。 調べてみて解ったことをそのまま書いてみたい、と思っていますが、その世界は「竹の素材論」でもなければ「建築史」でもありません、「竹の建築誌」です。 屋根 日本の民家が造る「景観」は屋根の景観と言って良いようです。 民家のひとつひとつは、全て屋根のかたちによって「家」が造られています。 そして、その大きな傘のような屋根の下の幾つかの床が、ボクたちの生活空間と言って良いでしょう。 どこの地方の民家も、様々な屋根と床とのバランスに苦心した結果です。 多くの人たちは知力と技量を尽くし、のどかな田園に、瀬が走る川添いに、あるいは、山深い谷あいに沢山の民家をつくり、幾千の「日本の風景」を造っていきました。 しかし、その風景の主役となる「草屋根」の構造は、驚くほど共通した作られ方をしていました。 屋根構造の歴史的変遷を見てみますと、1000年も前の登呂の遺跡から、そのほとんどは大きな変化はありません。 弥生時代に出来上がった「屋根の構成マニュアル」は後の世、どの時代にあっても、ほとんど変わることなく生き続けてきました。 そのマニュアルの鍵となっているのは「竹」でした。 竹は厚みのある「草屋根」の中で、径を変え、長さを変え、形状を変え、場所を変え、さらに「たるき竹」「屋中竹」「小舞竹」「鉾竹」「えつり竹」「簀竹」「棟竹」と様々に名前を変え、様々の役割を果たしてたのです。 マニュアル化された草屋根ではありますが、その形状は地域の持つ気候風土、時代の変化に対応する豊かなバリエーションを産み出してきました。 そのマニュアルが示す竹の持つ「秘密」、それは「竹篭の原理(篭構造)」にあるのです。 一本一本は細くて弱いが、重ね合わせた接点(篭目)の一つ一つをしっかりと結わえ、総体として支え合いバランスを取りながら、様々な寸法、形状に合わせた豊かなバリエーションを産み出し、しっかりとした強度を生み出していく。 これがマニュアル、日本の屋根の構造です。 まさに、楠正成の故事のような「秘密」が「竹」を媒体として「日本の風景」を造りだしていったと言って過言ではありません。 さらに、竹は「いつでも、どこでも」調達でき、専門的、あるいは特種技術を要することなく、誰でも自由に使用することが出来た素材です。 省資源・リサイクルを指向する最先端「材料学」の現在の課題は「壊したい時、壊れ、壊したい場所が壊れ、難しい道具と技術を利用することなく、大人でも子供でも扱える材料」の開発にあると、参加した研究会で発表されていたことがあります。 つまり、「TAKE」という新しい「素材」の開発が、今の「材料学」の課題となっています。 したがって、「竹篭の原理」の新たな応用こそが、新素材を使っての新たな現代建築テーマとなっている、と言って過言ではありません。 ![]() 床 大きな屋根の下の「床」、日本の最初の床は「土間床」です。 地面より50センチほど掘り下げて生活空間としたもので、その建築を竪穴式住居と呼んでいます。 一方、弥生時代、稲作という新しい文化をもった人々の集落であった登呂では、その収穫物の倉として「高床」の建物が建設されました。 高床の建物は古墳時代の家屋文鏡や銅鐸のデザインにも登場し、新技術を取り入れた、時の権力者たちの「象徴」となっていた建築であると考えて良いとおもいます。 しかし、ここで重要なことですが、日本の住まいの源流は、「竪穴式住居」と「高床式住居」、床位置の異なる二つのの流れがあったということを忘れてはいけません。 その一つ、様々な「高床式住居」を持つのは東南アジア地域、そこは「竹建築」の世界と言って良いとおもいます。 特にタイ北部山村のアカ族、ヤオ族の集落では、伊勢神宮と見間違えるようなの「竹の家々」で生活が営まれていました。 タイの建築家スメート・ジュムサイ氏は、その著書「水の神ナーガ」で、高床式住居は稲作、六ツ目編み、と共にアジアウォーターフロント地域の文化的共通項だと指摘されています。 「高床式住居」と「稲作」のセットは、日本でも一般的ですが、「竹の網目」の三角形格子、六ツ目編みを含んだ3つをセットの共通項とし、アジアの建築・都市を探求した「水の神ナーガ」は大変ユニークで興味深い「本」です。 特に「竹」ではなく、竹の網目「篭目」にこだわったところがジュムサイ氏の大事な点。 何故ならば、日本の屋根の「篭構造」もまた、アジアの「水の文化」の産物であったと納得させてくれるからです。 東南アジアは竹の「住居」や「生活用品」の中心地です。 従って、その高床式住居の「床」の簀の子が竹で造られ、「六ツ目編み」の竹蓆が敷かれているのは当然のこと。 しかし、日本家屋の「床」がこの高床と同一であり、同じものの発展と決めてしまうのはちょっと早計です。 「床の文化」を持つ日本、ちょっと専門的説明ですが読み取って下さい。 日本の床は、東南アジアの高床とは異なる、もう一つの「秘密」を持っていた考えられます。 東南アジアでの高床の構造は人間の背長けほどある高さの位置で柱の間に床梁を架け渡します。 それは高倉(伊勢神宮)の形式。 2階部分を作る一般的な方法と言って良いとおもいます。 一方、注意して見て欲しいのですが、日本家屋の「床」は住居の主体構造とは切り離されたものなのです。 つまり、日本の「床」は、屋根を支える「柱」とは無関係な台のようなモノであることを忘れてはいけません。 柱と柱の間に、何本かの束(床だけを支える短い柱)を地表に建て、大引きで足固めし、床を貼る。 これが「日本の床」、高床とは異なる束床です。 東南アジアの「高床」とは全く異なるの構造です。 東南アジアとは異なる「日本の床」は「土間」とは異なる「第二の床」として、古墳時代の竪穴式住居では、もうすでに採用されていました。 「土間」と共存するが、僅かな高さの違いで、主体構造とは別のテンポラリーの「第二の床」の発見。 この発見は平安時代には、その「床」の上に「畳」を敷くという、「第三の床」の発見を導きました。 「土間」「床」「畳」、この「三つの床」の発見が日本独特の「床の文化」「間の文化」を育んだでいったと考えられます。 「三つの床」の構成は住居空間の機能分化と深く関わり、接客空間の発展を促し、秩序あるコミュニケーションと社会的統合の「場」を提供しました。 やがて、「三つの床」は「仕つらえ」「身振り」「仕草」という、きめ細かな日本の文化を展開する格好の「舞台」、「道具としての床」ではなく、「文化としての床」を提供することとなりました。 「建物」とは異なる「床」の発見は、その後、日本の文化を展開する上で最も重要な基盤となりました。 さらに、この日本の「床」の秘密はアジアの「水の文化」に通底する大事な視点をも提供してくれました。 日本の建築の特徴は、「大屋根全体を支える構造」と、「生活を支える構造」とが分化しているところにあるのです。 今度は「床」ではなく「床」と「屋根」を支える「構造」に着目してください。 高床構造の柱は「屋根」と「床」を支えますが、「日本の床」は屋根を支える柱とは無関係、つまり、一つの建築が「二つの構造」を持っているところが重要です。 「二つの構造」を持つ日本の建築の意味は、別々の時系列に対応した、別々の建築が一つの建築的世界を作っているということを意味しているのです。 つまり、「第一の建築」は地形や自然現象と一体となり100年、200年を越す時間を生きなければならないのですが、「第二の建築」はその時代のライフスタイルに合わせて、20年も持てばよい。 これが日本の住宅の「時の流れ」に対応したしたたかな方法です。 西洋化した日本人は「新陳代謝」が日本の「建築の方法論」として極めて重要と、度々とりあげています。 しかし、それが単なる代替えを意味するとしたら、それは大きな間違えです。 「二つの構造」、「竹の床」と「束の床」の意味が読み取れていないとするならば、「水の文化」あるいは「時間の流れ」に対応した日本建築は理解されていない。 つまり、それは「作っては壊す」だけの浅薄な歴史認識にほかならず、したたかな、本来の日本建築の方法が読み取られていないことになってしまいます。 竹の建築誌−2/壁と垣根そして桂離宮 壁 屋根の中に仕込まれていた竹の「篭構造」は壁の中にも隠されています。 ジュムサイ氏の言う「六ツ目」ではなく「四ツ目」ではありますが、「篭構造」というアジアウォターフロントの共通の産物は壁の中では、土と協力し強靭な耐力と防火性能、除湿効果を合わせ持つ、日本の気候風土にもっとも適合した複合材を産み出しました。 まさに南の「竹」と北の「土」の協力事業であです。 しかし面白いことに、お隣りの中国や韓国では「土壁」の下地に竹を用いる習慣がまったくありません。 その影響でしょうか、我が国でも法隆寺の時代から寺院建築では、桧という「木」の小舞が使われていて、竹になるのは室町時代、全面的に使われるのは、なんと桃山時代に入ってからだなのだそうです。 では、それ以前の平安時代、京の町屋(庶民の家)や近郊の農家の土壁は、その下地は竹ではなく、木であったというのでしょうか、当然「竹」であったと考えるべきでしょう。 ![]() 日本の建築を造る集団には二つの流れがありました。 一つは格式的建築とでも言いましょうか、社寺や宮殿、貴族の邸宅建築の流れです。 ここでの建築は大棟梁のもと様々な職方が一体化し、専門家による組織的建築作業により造られていました、まさに、現在の大建築会社による施工組織と同等です。 そして、ここには当然、中国や韓国の新たな技術やノウハウが逐次移入されたでありましょう。 もう一つの流れは非格式的建築、いわゆる庶民の町屋や民家であり、若干の職人たちか、農民という非専門家たちが、祖先から継承した様々な技術を駆使しながら、協同作業によって建築を造っていました。 建築美の表現においても、前者は崇高さや荘重さを、後者は合理的で気持ちが良いを第一としたのであり、つくり手たちの各々は、別々の価値観と別々の美の世界を追い求めてきたと言えるようです。 一つの国に二つの建築の世界が互いに合い関知もせず別々に進行していたのでり、「竹」は前者の格式的建築では全く使われることはありませんでした。 まるで無視といおうか、忌み嫌うかのように。 しかし、庶民の建築では全く逆で、中世の京の街はまさに「竹の風物誌」なのです。 従って「土壁」の発見はむしろ庶民であって、寺院建築の渡来とは異なる、庶民による「竹」と「土」の融合の技術によって、日本独特の「壁」が産み出されたと考えられます。(参考:左官は日本在来のもので、渡来技術に起源を持つものではない。鈴木忠五郎/建築ものはじめ考、新建築社) そして平安時代の京のまちやや民家では当然、小舞竹と土による協同の産物が彼らの生活空間を形作っていたのです。 やがて近世を迎え、庶民の持つ田楽・猿楽や茶が「能」「茶道」として「格式化」「都市化」されたように、庶民の「竹」は、数奇屋造りの中に「建築化」されていきました。 「建築化」されると言うことは「裏方」ばかりの利用であった竹は、社寺や城郭、貴族の邸宅という「表向き」の世界にも登場し、さらに「桂離宮」に見られるように床、壁、天井、窓、とあらゆる所に技術的洗練と美的配慮を尽くされ、利用されるようになったということです。 桂離宮が造られる桃山時代、農業技術の発達にともなう生産力の増加は庶民の経済力の向上を導きました。 加えて社寺、城郭の大規模な造営が各地で頻繁におこなわれ、建築ブームにのって、たくさんの職人たちが生まれています。 今まで、町屋しか造らなかった職人が、社寺、城郭を造り、そしてまた戻り町屋や民家を造るというように、二つの建築の世界は交流が激しくなり、庶民の持つ様々な技術も、数奇屋造りや桂離宮という新しい美の世界の担い手となっていったのです。 その大きな担い手が「竹」であり、「竹の技術」です。 まさに「竹」による下剋上と呼べるものです。 しかし、その「建築化」により表舞台に立った竹は、何故かパワーを失ってしまいます。 中世の京の町並みを彩り、竹による様々な意匠を凝らした町屋の数々は、「能」や「茶道」が過去の形式として私たちの日常生活から見離されたように、「竹」はその後どんどんと、私たちの生活環境から遠退いていきました。 「竹」の衰退はこの100年ではなく、300年です。 300年という時代のスパンは、「美意識や生き方や価値観」という身近な観点ばかりでなく、「地球規模の社会、その社会構造全体」を見直す必要がある、と指し示しているのではないでしょうか。 垣根 現在、私たちの日常環境で竹が圧倒的に利用されているのは、「垣根」です。 そのデザインの種類は、なんと150を超えるといわれます。 大都会ではともかく中小都市では今でも、まだ「竹垣」が健在であることは興味深いことです。 自動車に襲われれば簡単に壊れてしまう「軽便」な竹垣が、なぜまだ多用されているのでしょうか。 そこには「竹としめ縄」による「ひもろぎ」や正月飾りの門松に示される、竹のもつ神聖さ、「地震が来たら竹薮に逃げよ」と子供のときに聞かされた、「竹林」のもつ安全さが、その物理的役割を超えて私たちの(精神)生活に深く記憶されているように思えてなりません。 ![]() 竹垣の発達も竹の「建築化」の時代同様、桃山時代です。 茶の湯の成立、茶庭の路地による庭園様式の出現と里における竹林の一般化が竹垣の普及を促したのです。 工作しやすく良質な竹が手短な周辺から沢山産され、優れたデザインが茶の湯の文化の普及と共に一般化したのですが、ここでもまた「都市化」「建築化」に呼応する、自然の「庭園化」に深く関与したのが「竹」でありました。 しかし、竹の「建築化」が何故か竹の衰退を導いているように、自然の「庭園化」は、その後の私たちの生活を大きく変えていったのではないでしょうか。 私には、私たちの日常生活と自然とは一体的(共生)である、という本来の姿を見失わせる原因が、ここにあるように思えてなりません。 桂離宮 月の名所、桂離宮は淀川への注ぎ口に位置する水難の地、そしてまた、古くからの竹の植生の地でもありました。 舟運、魚取り、舟遊び、瓜見、花見、月見等には絶好であったとは言え、一度大雨が続けばまたたく間に、あらゆるものが水流に巻き込まれる、このような場所にあえて建築を決意をさせたのは、当時の水害防備技術に対し、かなりの信頼が寄せられていたことがわかります。 果たせるかな桂離宮はいくたびかの洪水をのりこえ、今日を生きています。 桂離宮を守る水防技術の一端は「竹」にあります。 堤沿いの「桂垣」、御門の両脇の「穗垣」、共に訪れる人を心なごませる美しさですが、この「竹垣」が洪水の時、襲い来る水の速度を和らげ、土石の侵入を防ぎ、桂離宮を今に伝える重要な役割を果たしたのです。 「桂垣」はその姿から笹垣と思われていますが、実は耐水性のよい「淡竹」を生えたままに折曲げて編み付けられています。 垣根沿いには、ほぼ10メートル間隔に欅が植えられ、垣根の裏側は折曲げられた「淡竹」と共に、「真竹」が蜜植されていて、竹林と欅による協働で、襲いかかる水流を和らげ、石礫を濾過し、土砂の流失を防いだのです。 御門脇の「穂垣」は数十センチメートル間隔の太い半割りの竹を支柱に、竹の細い穂先が横に厚く束ねられています。 この「垣根」は明治になって「桂垣」にかわって設けられたものだそうで、水防備の機能の程度は明確ではありません。 しかし、土塀や板塀では不可能であろう役割を果たすことはまったく事実なのです。(桂垣、穂垣の説明では大熊孝著「洪水と治水の河川史」を参考としました) 桂離宮は17世紀中庸、約50年間に渡って段階的に造営されています。 その頃は、公家や僧侶が中心の王朝風文化と、武家や商人による能や茶の湯の文化が重なり合った時代でした。 建築様式も「書院」と「数寄屋」が交じり合い、戦争に明け暮れた時代を乗り越え、新しい文化を創りつつあったのです。 その桂離宮には「竹垣」ばかりでなく、屋根、天井、壁、窓、床と「竹」の持つ機能性、精神性、造形性、簡素な美しさが、巧みに折り込まれています。 とくに月波楼の天井や賞花亭の大窓、竹の雨どいには工芸化された竹には表現できない、自然性、直裁性、時間性を見つけることができ、「竹」に視点を置いて「桂」を見ると清楚、明澄、単純、簡浄、透明、永遠とは異なる、ハイブリッドな、したたかな、たくましい、庶民性を持った桂離宮が発見できるように思えます。 ![]() 竹は耐久性が短い、虫がつくと始末が悪い。 しかしそのような竹を、時には生きたまま、あるいは周到に伐期を読みながら、身の回りから手軽に調達し、壊れたら直し、絶えず修理し、メンテナンスすることで形を整え、継承していく。 これが桂離宮であり、西洋の永遠性や記念性とは異なる、日本あるいはアジアウォーターフロント共通の「時の継承」の技術、自然と対話した環境技術です。 ここに見いだされる「時の流れに対応する技術」、この技術を私たちは現在、「竹」と共に「桂離宮」に置き忘れてしまったかのようにおもえてなりません。 今、「竹」も「建築」もあまりにも矮小化されてはいないでしょうか。 共に、再び「自然」の真只中にドーンと据え付けてみる必要があります。 そうすれば、開かれた自然との新たな関わりの中から、新しい、大らかな「竹」と「建築」を再び発見できるに違いありません。
2012年 04月 06日
「ニーチェの馬」を観る。恐ろしくミニマルな映画だ。作ったのは「倫敦から来た男」の監督、ハンガリーのタラ・ベーラ、会場も一昨年と同じ宮益坂だった。(http://leporello.exblog.jp/12747085/)作品は今回もモノクロ、この監督はなんと言っても映像がいい。 2時間余りをわずか30カット、長回しのカメラ映像は観客をしっかりと引きつけ続ける。 音楽はたった一つのメロディだけ、一切の変奏もなく弦二つとオルガンが物憂げに時たま挿入される。 音の大半は例によって環境音。 この映画の主役は嵐のような風だが、ほとんど全編にわたり鳴り響く。 映画には言葉はいらない、映画は映像がすべて、それがこの監督の映画のようだ。 5部に分節されているがいつものようにドラマが進行するわけではない。 観客は映像を見つめるだけ。 しかし、不思議だ気がついてみると、ボクは勝手に様々なことを想像している。 なるほどわかった、これが監督の作戦、彼はすべてをそぎ落とし、観客をただただ映像の中に引き込むことが目的、後はなんでも勝手に想像させようとしているのだ。 題名のニーチェは意味深だが、その辺の詮索は一切意味がない。 そろそろ終わりかなと思う頃、映像に変化が生まれる。 馬は何も食べなくなり、井戸から水が消え、ランプも消え、火種も無くなり、風が消え、そして映像が消え館内が明るくなる。 でも、不思議だ映像に引き込まれながら、必死にいろんなことを考え続けていた自分だけが取り残された。 この映画、自宅のカウチポテト鑑賞なら10分で飽きていたかもしれない。 丁度、読みなれない小説の最初の10頁を何回も再読させられ、一向に先に進まないように。しかし、今日は真っ暗な映画館。 縛り付けられているわけではないが、席を離れることはない。 そして、監督の作戦通り、ただただ映像を眺めているうちに、いろいろなことを考えていた。 「人間ってどこから始まるんだろう?」。 それは、物理的・現実的あるいは生物的意味での人間ではなく、観念としての人間だが、そんなことを考えているうちに、全てが「終わった」。 青山通りに出ると今日もまた風がやけに強かった。
2012年 04月 03日
震災に見舞われ 本公演が中止になり、練習の努力も報われなかったカヴァー歌手による演奏会「コジ・フアン・トッテ」を昨年5月鑑賞した。「凄い!」と感じさせる演奏を聴かせいただいたので、今年も特別企画「ドン・ジョヴァンニ」も大いなる楽しみ、早々にチケットを手にしておいたので今日、中劇場に出かけた。(http://leporello.exblog.jp/15557533/) 演奏会形式による「ドン・ジョヴァンニ」は難しいと考えていた。 モーツアルトのこのオペラ、人気演目であるからアリアの大半は全ての聴衆よくご存知。 その良く知られたアリアの数々をただただ独唱会のように聴かされたのではオペラ鑑賞とはほど遠いものとなってしまう。 いやぁ、余計な危惧だった、今年もまた大満足。今月下旬の本公演の歌手たちもこのできばえにはそうとう煽られるに違いない。 危惧の理由は「ドン・ジョヴァンニ」の面白さは登場人物個々の自己表現にあるからだ。 振りと衣装を着けた本公演なら、歌による「意味と感情」が表現不足でも、このオペラのポイント、登場人物個々のキャラクターは十分に理解できる。 しかし、演奏会形式ではそうはいかない。歌手はみなキャラクターを的確に表現し、ドラマの内実に与えられた人間的役回りを面白く演じなければならない。 「ドン・ジョヴァンニ」は喜劇的悲劇、いやそんなことはどうでも良い。 このオペラの面白さは「中世と近世」の狭間の人間模様にある。 ボクはこの中のドンナ・エルヴィーラが好き。 彼女は古い世界に生きながら近代人ドン・ジョヴァンニに恋をし、その恋から逃れられない狭間に生きる美しくも悲しい女性。 それをひ弱ではなく凛と描く演出が好きだ。 今日はややノーマルだが佐藤康子のエルヴィーラを堪能した。 ドン・ジョヴァンニにはカソリック的道徳感は全くない。 騎士でありながら中世的ストイックな恋をせせら笑い、広くあまねく性愛(18世紀的な意味で)を求める。 しかし、いまやどこにでもいる近代人。 だからこそ彼は地獄に堕ちる、そう、彼は近代人第一号、われわれには天国はない。 ボク独自の偏見だが、ドン・ジョヴァンニは実はレポレロでもある。(これも演出の問題、今日はボクの好み、毅然とした北川辰彦のレポレロには満足している) つまり、二人で一人の近代人、あなたも思い当たるでしょう、自分の中にドン・ジョヴァンニとレポレロの二人が生きていることを。 地獄に堕ちるのが怖いならレポレロのように生きれば良い。 事実、近代人の大半はレポレロだ、そう地獄に落ちることはない。 ダ・ポンテとモーツアルトは何でも知っていた。 ここまで書けばもう説明はいらない。 ドンナ・アンナとドン・オッターヴィアのお二人、モーツアルトが書いた歌を聴けば、彼らがどんなに窮屈な貴族的中世人かが良く判る。 ダ・ポンテは相当の貴族嫌い、甘い口先だけで復讐どころか、喧嘩も出来ない騎士か貴族、ドン・オッターヴィアは18世紀の鼻つまみもの典型として書いている。 しかし、モーツアルトはしたたかだ、彼ら二人にもっとも長時間、浪々と宗教曲に似た美しいアリアを歌わせている。 そして、ツェルリーナとマゼット、彼らの恋と歌は近代そのもの。 ツェルリーナのしたたかな歌と魅力があれば世界中の男、全てがだまされる。 レポレロようにひとりで旅をつづける人生より、ツェルリーナのような可愛い恋人を早く見つけ、浮気と痴話げんかに明け暮れる毎日の方が幸せだ。 最初に触れたこのオペラの面白さであり難しさ、「意味と感情」のズレに触れておこう。 オペラはエンターテイメント、詩と音楽が相和し恋の喜びと悲しみを存分に語ってくれる。 しかし、それだけでは400年も続かない。 そこには隠された神には敵わない人間として悲劇、あるいは個々人の生き方の主張だけでは解決しない集団の中の人としての悲しみが描かれる。 そしてオペラを観る楽しみだが、それは音楽と演出の問題、言葉としての意味と音楽としての感情がいつも一致しているとは限らないところにあるからだ。 言葉は強く逞しいが音楽(感情)がやけに悲しい、あるいは状況に連続する音楽は楽しいが、結構言葉は切羽詰まっている。 そんなズレを楽しむのが最近のボクのオペラ観。 その典型はヴェルディの「オテロ」にあると思うが、その話はまた別の機会として「ドン・ジョヴァンニ」にもその奔りが沢山ある。 このオペラでボクが最も好きなアリアはドン・ジョヴァンニが歌う「窓辺においで」。 二幕の初めに唐突に挿入される、このオペラで最も美しいアリア。 主役なのに彼のアリアは短い3曲のみ。 その貴重なアリアもドンナ・エルヴィーラの小間使いを口説くマンドリンによるセレナーデ。 しかし、何とも諧謔と韜晦そのもののシーンであり音楽だ。 ドン・ジョヴァンニのドンナ・エルヴィーラに対するレトリカルなデリカシー、それは案外スペイン人ドン・ジョヴァンニではなく、ヴェネツィア人カサノヴァのものかもしれない。 この辺りはモーツアルトではなくダ・ポンテに聞くしかないが。 このアリアがこのオペラでは最も重要。 まさに中世のトロヴァトーレ(吟遊詩人)そのものではないか。 そう、ドン・ジョヴァンニはヨーロッパ中を旅し恋を歌った中世の遍歴の騎士。 その騎士が近代の語り部として詩を歌い、その心を引き継いで行く。 このアリアは当然イタリア語、しかし、よく聴いてみて下さい、ボクの耳にはその後のシューベルトのドイツリートとして聴こえてきます。(http://www.youtube.com/watch?v=0P9N758jM2Q) 今日の演奏会形式の「ドン・ジョヴァンニ」はまさにボクの注文通りの演出、それも嬉しいことに国音の卒業生がレポレロ、ツェルリーナ、マゼットを歌ってくれました。 4月下旬は本公演、ますます楽しみです。
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